29話 領土交渉
十二夜の夢は、いつものように静かに扉を開いた。
ルシエルは、魔界の第一礼装を纏っていた。
漆黒の外套に銀糸の刺繍が施され、胸元には公爵家の紋章が輝く。
腰には細身の儀礼剣、背には黒い翼を模したマントが広がり、彼の姿はまさに「魔界からの外交使節」そのものだった。
紫の瞳は冷たく、しかしどこか緊張を帯びている。
扉を押し開くと、そこはオルヴェス王国の謁見の間だった。
天井は高く、柱は金箔で飾られ、玉座の背後には王家の紋章が刻まれた巨大なタペストリーが垂れている。
月光がステンドグラスを通り、床に青白い光を落としていた。
その玉座に座るリーザは、王女ではなく、まるで女王のように堂々としていた。
深い青のローブに銀の冠を戴き、金色の髪はゆるやかに編み込まれ、胸元は優雅に開きながらも、威厳を損なわない。
彼女の瞳は茶色がかった柔らかさを持ちつつ、底知れぬ深さを湛えていた。
ルシエルはゆっくりと進み出て、謁見の礼を取った。
右膝をつき、頭を深く垂れる。
声は低く、しかし明確に響いた。
「オルヴェス王国の高貴なる王女、ルイーゼ・ディノクタス・オルヴェス殿下。
魔界七十二柱の魔王の一柱、ルシエル公爵、本日、貴女の御前に参じました。
どうか、謁見をお許しくださいませ。」
リーザは玉座から静かに見下ろす。
彼女の視線は穏やかだが、その奥に冷たい光が宿っていた。
「……ルシエル公爵閣下。よくぞお越しくださいました。
私は貴方の従者に、十二夜の夢の中で直接お話し合いを求めました。
その約束通り、礼節をもってお迎えいたします。どうぞ、お顔を上げてください。」
ルシエルはゆっくりと立ち上がり、紫の瞳をリーザに向けた。
「ルイーゼ殿下……このような形で謁見を願うこと、誠に恐縮に存じます。
私の従者、レジナルド・チェンバースが、貴女に不敬を働いたこと、深くお詫び申し上げます。
彼の行為は、私の指示によるものであり、すべて私の責任です。」
リーザは静かに微笑んだ。
「そうですか。私は王女として、貴方がた、主従の行為を許すことはできません。
とても卑怯で、下劣で、浅ましく――”立派な殿方”がなさることとは言えませんわ」
『立派な殿方になったら、結婚してあげる』という、幼い日のルークとの約束を今になって持ち出し、リーザは初手から残酷に詰め寄る。
これでは、取り付く島もない。
「しかし、私は人間として、貴方の心を理解したいとも思っています。
だからこそ、今日は対等に話し合いましょう。
貴方は魔界の公爵。
私はオルヴェスの王女。
ここは夢の中。ですから、偽りなく、貴方の本心を聞かせてください。」
ルシエルは静かに息を吐き、紫の瞳をリーザにまっすぐ向けた。
「わかりました、殿下。私は……貴女を、愛しています。
それは、支配欲ではなく、本物の愛です。
従者を頼り、夢の中からあなたに近づいたのは、私の弱さです。
貴女に拒否されるのが怖かった。だがそれは、卑怯な方法でした。」
(――意外と素直なのね)と、リーザは玉座の上から、この美しい魔界の公爵を見下ろした。
何度も夢の中で愛を交わした相手と、こうして慇懃に向かい合う茶番を、リーザは密かに楽しんでいるのかも知れなかった。
「貴方は、私に何度も妻になれと仰ったわ。
でも私はオルヴェスの王女。貴方は異国の公爵閣下。
貴方が望まれるものは――少し大きすぎると思いませんか」
意地悪女め、と心から愛する女性を、内心でルシエルは罵った。
「たかが公爵」では身分が足りないと、リーザ姫ははっきり口に出して言ったのだ。
ルシエルは静かに息を吐き、紫の瞳をリーザにまっすぐ向けた。
声は低く、しかしこれまでで最も素直に響いた。
「……確かに、公爵では足りません。貴女は王女であり、王位継承者。
私は魔界の公爵に過ぎない。
身分だけを見れば、私の望みは大きすぎる……その通りです。」
「ですが、殿下。身分や領土、政略……そんなもので測れるものではないでしょう?
私は、貴女を『王女』としてではなくリーザという一人の女性として、愛しています。
幼い日の約束を、今も覚えています。
『立派な殿方になったら、結婚してあげる』……と。
私はまだ、そういう存在にはなれていません。
でも……だからこそ、貴女に、こうして直接、向き合いたかった。
貴女の前に立っている今、私はようやく、貴女に本当の気持ちを伝えられる立場になったと思っています。」
あのプライドの高い若き魔王が、今や何もかも振り捨てて、リーザにただひたすらに愛を懇願している。
「公爵の身分では足りないなら……、むしろ爵位など捨てて、一人の男として貴女の傍にいたい。それが、私の答えです。」
彼の瞳に嘘はなかった。本心から彼女を愛しているのがわかる――。
リーザはそれを無視し、儀礼的に微笑んだ。
「魔性の殿方は、嬉しがらせをおっしゃるのがお上手ね。
貴方のように美しい男性からそう口説かれて、悦ばない女性などいないでしょう。
――でも、ここからは、きちんと貴方とお話したいわ、閣下。
貴方と夢の中でこうして向き合って、現実の話をしましょう」
リーザは毅然とした態度を崩さず、魔界の公爵に向き直った。
「ルシエル公爵閣下、今後、私の夢に立ち入らないでいただきたいの。
――私は、貴方とは結婚はいたしません。
一国の王女として、己の責務に基づいて行動いたします」
「殿下、答えはノーです。
貴女の夢は、いまや私の夢でもある。
私は自由に、貴女の夢の扉を叩き、貴女は私を受け入れ、――私を愛し始めている。
十二夜の夢の続く限り、私があなたの夢を訪れることを、誰も阻むことは出来ません」
ルシエルは、夢の世界の”実効支配”を主張する。
リーザの夢は、ルシエルの夢でもあった。
彼らだけの秘密の楽園として、すでに機能していた。
「ルイーゼ殿下、貴女はいずれ、真に私を受け入れてくださると信じています。
私は、貴女をわが妻とし、魔界で共に生きたい」
「魔性の世界に生まれた者は、長い命を持つと聞きました。
貴方は――わたしに永遠の命を下さるの?」
どう答えるべきか、ルシエルは迷った。
人間であった母プロセルピナは、彼を産んでまもなくに亡くなっていた。
同じように魔界に生きる人間であるレジナルドも、彼自身の寿命からは逃れられない運命だ。
答えたくない。しかし、嘘はつけなかった。
「いいえ、殿下。人間の定められた寿命を、――伸ばすことは出来ません」
「では、私を妻として手に入れても、貴方はいずれ”人間である私”をすぐに失うわ。
貴方が深く愛してくださるほど、その痛みはきっと辛い痛手となるでしょう」
美しい蝶やかげろうを捕えても、そのはかない命はかわらない――リーザは容赦なく、ルシエルの甘い理想を突いた。
「貴方が魔界のご身分を捨ててもいいと仰ったことは、一人の女として、とても嬉しく思います。
でも――現実的に、身分を捨てられるはずもないことは、私自身も良くわかっていますわ」
ルシエルを制してそのまま続けた。
「魔界では契約がすべてと聞きました。――私は、貴方と契約を結びたいと思います」
このくだらない”謁見ごっこ”など、もう沢山だ。
魔界の公爵としての口上などかなぐり捨てて、ルシエルがこらえきれずに吠えた。
「契約だと!……どういうつもりだ、リーザ」
「契約は契約よ、ルシエル。私たちのこれからを決めましょう。
私は貴方とは結婚しない。
その代わり、この十二夜の夢が続く限り、そのなかでは貴方を永遠の恋人として、心から愛し続けるわ」
愕然とするルシエルを、リーザは冷静に見降ろした。
「わたしの夢の世界を、あなたと共同統治するということよ。
その代わり、私の”現実の人生”に本当の自由が欲しいの。
――オルヴェス王国の姫としてではなく、ひとりの女性としての人生でいい。
愛する人と巡り合い、結ばれ、子供を産み、育て、時が来たら人間として幸福に死んでいきたい。
ルシエル、私に自由をちょうだい。その代償として、私は夢の中であなたの所有物になるわ」
ルシエルは激しい怒りに震えて、リーザを見返した。
「妻ではなく、愛人になってやるというのか」
「王女は愛人にはならないわ、ルシエル。王女が公爵を寵臣とすることはあってもね」
「話にならない。もちろんこんな契約は認められない。
お前は俺のものだ、リーザ。お前の人生すべてを手に入れなければ意味がない。
他の男との子を抱く、お前の姿など見たくない」
交渉は決裂し、ルシエルは、即座に場を立った。
胸を貫く残酷な痛み。女という生き物のなんと無慈悲なことか。
――リーザという美しい竜の焔にめらめらと焼き尽くされ、彼の魂がただれた。




