26話 リーザの誘惑
満月の光が、王宮の最奥に位置する王族専用の私室を、淡く青白く染めていた。
ルシエルが夢の扉を押し開くと、そこにリーザは立っていた。
彼女は今までに見たどの姿よりも、清らかで、儚く、美しかった。
深い青のドレスは、まるで夜空に咲く縹竜胆のようだ。
裾には、銀の刺繍が細かく波打ち、月光を受けて静かに揺れている。
金色の髪はゆるやかに編み込まれ、首元には細い銀の鎖が一本だけ。宝石はつけていない。
ただ、その白い肌と青い布のコントラストが、息を呑むほどの清しさを放っていた。
リーザはルシエルを見上げ、静かに微笑んだ。
「……ごきげんよう、ルシエル」
声は穏やかで、しかしどこか遠くを眺めるような響きがあった。
夢の中の彼女は、もう拒絶の言葉を口にしない。代わりに、ゆっくりと手を差し伸べた。
「一緒に来て、案内したいところがあるの」
リーザはルシエルを導き、長い回廊を抜け、重厚な扉を開けた。
そこは小さな礼拝堂のような部屋だった。
壁一面に、先代国王の肖像画が掛けられている。威厳ある顔立ちの男が、玉座に座り、厳しく前を見据えていた。
リーザはその絵の前に立ち、静かに語り始めた。
「父上は……とても優しい人だった。でも、王として生きることを強いられて、笑うことを忘れてしまったの。
私がまだ幼かった頃、よくこの部屋に連れてきて、絵を見ながら話してくれたわ。『お前は王家の娘だ。強くなれ、孤独を恐れるな』って」
彼女の声は、かすかに震えていた。
「でも父上を喪って……それから、私は本当に一人になった。
王宮の中で、誰も本当の意味で私を愛してくれなかった。アレクシスでさえ、ただの道具として見ていた」
ルシエルは黙って彼女の横に立ち、肖像画を見上げた。
リーザの言葉が、胸の奥に染み込んでくる。彼女の孤独は、かつての自分が抱えていたものと、驚くほど似ていた。
リーザの父の隣に、もう一枚の肖像画があった。
未完成の王妃の肖像。
ドレスは美しくあでやかで、絹のような布が柔らかく波打ち、肩から流れるヴェールは月光のように透けている。
体躯は優雅で、豊かな曲線を描いていた。だが、肝心の顔は描きかけのままだった。
ただ、左の瞳だけが、完成していた。
夜の海のように深い藍色の瞳――。
リーザは静かに言った。
「母上は……とても美しかったそうよ。王宮画家はとうとう、母上の美しさを筆で残すことが出来なかった。
でも不思議なことに、今となっては誰も彼女の名前を覚えていない。
公文書にも、記録に残っていない。
ただ『王妃』とだけ呼ばれて、ある日、王宮から名前とともに霧のように消えてしまったの。
私がまだ赤子だった頃に」
ルシエルは、レジナルドの報告書を思い出していた。
それは、リーザについて緻密に調べ上げられた文書のなかの、ただ一つの「空白」だった。
ルシエルは肖像画に近づき、キャンバスの下部に目を凝らした。
そこに、薄く残された下書きの文字があった。
魔力を宿して目を凝らすと、古い筆跡で、かすかに浮かび上がる。
普通の人間の視力ではとても読めないはずだ。
”王妃ノーマの肖像”
ルシエルの指が、キャンバスに触れる。
片方だけの藍色の瞳が、まるで彼自身を映す鏡のように、静かに見つめ返してきた。
「……ここは、王族しか入れない部屋よ。私の知る限り、王族以外でこの部屋に入ったのは貴方だけ」
ルシエルは一瞬、息を止めた。
彼女の指先が自分の掌に触れた瞬間、胸の奥で何かが熱く疼いた。
彼の求婚を受け入れる心構えが、ようやくできたのか――
そんな期待が、抑えきれずに浮き上がる。
「……リーザ」
ルシエルはゆっくりと振り返り、彼女の頰に触れた。
「俺の妻になれ。……俺の世界で、共に生きてほしい」
リーザは微笑んだ。
「なぜ急ぐの?……もっと貴方のことを知りたいわ――ルシエル」
彼女の瞳は、かすかに潤んでいる。
「そして、もっと私のことを知ってほしいの。私ももう、あの時の女の子じゃないわ。大人になったの」
レジナルドの策略による媚薬の影響なのか、あの王宮図書館で交わした激しい愛の影響なのか……
ルシエルには、彼女の心が見えない。
だが、彼女の熱く火照る肌のぬくもりに灯虫のように吸い寄せられた。
「この夢の中では、私は……貴方の望む姿でいたいの」
リーザのドレスが、まるで蜜のように溶けて床に落ちた瞬間、二人の周りを甘い熱気が優しく包み込んだ。
ルシエルは言葉を失い、ただ彼女を強く抱き寄せた。
リーザの体が自然に寄り添い、細い腕がルシエルの首に回る。
彼女の指が黒い髪を優しく梳き、耳元で甘く掠れた声が溶けるように響いた。
「……ルシエル」
ルシエルは彼女の唇に、羽のように軽く触れた。
最初はただ温もりを確かめるだけの、優しいキス。
リーザの唇が自然に開き、柔らかな舌が恥ずかしげに絡みつく。
二人はゆっくり、深く、時間を忘れて溶け合うようにキスを重ねた。
「ん……あ……ルシエル……もっと……深く……」
部屋中に、二人だけの甘い熱気が満ちていく。
「リーザ……お前を愛してる……言え、永遠に俺のものになると……」
抱き寄せられたリーザの体がかすかに震えていた。
彼女はルシエルの背中に指を喰い込ませた。
「言わないで……ルシエル……」
「言え、言うんだ、リーザ…俺の妻になると――言ってくれ、今すぐ……!」
その渇望の苦しみに呻きながら、ルシエルが求める形の愛に、リーザは応えなかった。
リーザという美しい花をその手にしていながら、彼は本当の意味での「所有」を許されない。
そしてそのことに、耐えられなかった。
黒髪から汗を滴らせ、荒々しく息をきらすルシエルを抱き寄せ、リーザはその額に接吻する。
二人は夢の中で完全に溶け合い、果てしない愛の奥底へ、ゆっくりと、永遠に落ちていく――。




