25話 変化
魔界の嵐は、真夜中近くになっても収まらなかった。
空は暗く、重い雲が渦巻く中、レジナルドはアルフレッドの執務室から出ると、風雨に濡れた衣裳を素早く改め、ルシエルの私室へと急いだ。
扉を叩くと、中から低く落ち着いた声が返ってきた。
「入れ。」
部屋に入ると、ルシエルは窓辺に立ち、嵐の空を眺めていた。
黒い髪が夜の闇に溶け込み、紫の瞳は静かに輝いていた。
その姿は、いつもの冷徹な貴公子そのものだったが、レジナルドにはどこか違う印象を受けた。
穏やかさというよりも、充足感が漂っている。
「レジナルド……戻ったか。――ずいぶん痩せたな」
ルシエルの声は、穏やかだった。
レジナルドは膝をつき、頭を下げた。
「閣下……アルフレッド様が、さきほどご逝去なさいました。最期まで、閣下の幸せを願っておられました。」
ルシエルの瞳が、わずかに揺れた。
しかし、すぐに平静を取り戻し、静かに息を吐いた。
「そうか……。長い間、この家を支えてくれた男だった。――それで、人間界の状況はどうだ。計画の進捗を報告せよ。」
レジナルドは、立ち上がり、声を落ち着かせて語り始めた。
「王太子アレクシスの信頼を得、姫の侍女一人を篭絡しました。媚薬の仕込みも順調で、十二夜の夢接続はより深く進むはずです。
リーザ姫は……美しく強く、賢い方です。あの姫君なら、閣下の傍らに相応しいでしょう。」
ルシエルの唇に、薄い微笑みが浮かんだ。
「ふん……お前がそう言うとはな。レジナルド、リーザの何を認めたというのだ。」
「王宮で直接お見掛けしました。
孤立した境遇の中でも、気高く振る舞う姿……それは、閣下の孤独を癒す力を持っているように思えました。」
ルシエルは、窓辺から振り返り、レジナルドをじっと見つめた。
その瞳に、わずかな充足の光が宿っていた。
「既に4晩にわたって、リーザと接触した。
夢の中で、彼女の体は俺のものになった。肉体の充足は得た……渇きは、しばらくおさまっている。」
レジナルドは、驚きを隠せなかった。
ルシエルの声は、いつもより穏やかで、苛立ちが消えていた。
大人になった、という印象を受けた。
少年のような脆さが影を潜め、貴公子の風格がより強く感じられる。
「閣下、よろしゅうございました。想いを遂げられたのですね」
「ああ――より深く、彼女を愛するようになった」
しかし、ルシエルは続けた。
「だが、まだだ。十二夜の夢の中で、リーザに婚姻を承諾させなければ、魔界へ連れ出すことはできない。
今の公爵家で、未契約の人間を連れ込むことは、家門断絶級のスキャンダルとなる。」
レジナルドは頷いた。
アルフレッドの警告が、胸に蘇る。
「その通りです、閣下。アスモデール殿下が、私邸の改修に監視の目を光らせているようです。
リーザ姫を迎えるための別棟……その動きを、すでに察知されているやもしれません。」
ルシエルの瞳が、鋭く細まった。
「アスモデールか……あの男の影は、常に付きまとうな。だが、構わん。リーザは俺のものになる。計画を急げ、レジナルド。」
レジナルドは、深く頭を下げた。
「閣下……それでは、私は人間界へ戻ります。」
ルシエルは、窓辺からゆっくりと振り返った。
その紫の瞳に、わずかな柔らかさが宿っていた。
「待て、レジナルド。」
ルシエルは、部屋の隅にある小さな棚から、古い銀の杯を取り出した。
杯は、魔界の古い工芸品らしく、細かな彫刻が施されていた。
ルシエルは、自らの指先に小さな傷をつけ、杯にわずかな血を垂らした。
赤黒い血が、杯の底に静かに広がる。
「これを飲め。」
レジナルドは、訝しげに杯を見つめた。
公爵の血――魔族の血は、強大な魔力を宿すものだ。
人間の自分が飲めば、どうなるのか。
しかし、ルシエルの命令に逆らう理由はない。
レジナルドは、躊躇うことなく杯を受け取り、一気に飲み干した。
公爵の血は、意外に甘かった。
蜂蜜のような甘さの中に、生命力に満ちた熱が広がる。
ほのかに、体が温かくなり、疲れが引いていくのを感じた。
レジナルドの短い人生を、少しだけ延ばす滋養――。
リーザを魔界に迎えた後の、長い戦いのためだ。
レジナルドは、そう気づいた。
ルシエルは、静かに微笑んだ。
「お前にも、長生きしてほしい。」
レジナルドの胸に、温かなものが広がった。
ルシエルの言葉は、単なる命令ではなく、初めての「思いやり」のように感じられた。
「閣下……心より感謝申し上げます。」
ルシエルは、視線を窓の外に戻した。
「行け」
レジナルドは、深く頭を下げ、部屋を後にした。
朝が来る前に、人間界に向けて発たねばならなかった。
*
人間界――オルヴェス王国の王宮。
レジナルドは、エドマンド・グレイとして、夜明け前の馬車で王城の裏門をくぐった。
魔界の嵐を背に、数日ぶりに戻ってきた王宮は、どこか空気が変わっていた。
静かすぎる。
いつもなら、朝の支度で忙しく動き回る侍女たちの足音や笑い声が聞こえるはずなのに、廊下はひっそりとしていた。
王太子アレクシスの私室へ向かう途中、エドマンドは厨房の近くで、若いメイドとすれ違った。
彼女は、慌てて頭を下げたが、その表情にどこか怯えが混じっていた。
(……何かあったな)
エドマンドは、銀縁の眼鏡を軽く押し上げ、淡い灰色の瞳を細めた。
アレクシスの私室に入ると、王太子はすでに起きていて、窓辺で紅茶を飲んでいた。
朝の陽光が、若い王太子の金色の髪を照らしている。
「エドマンド。故郷の母は快くなったか。」
アレクシスの声は、いつもより柔らかかった。
エドマンドは、慇懃に頭を下げた。
「殿下、有難うございます。大分良くなりまして、すぐ戻ることが出来ました」
王太子の着替えを手伝いながら、エドマンドはさりげなく尋ねた。
「リーザ様のご様子はいかがでしょうか。最近、お見かけしておりませんゆえ。」
アレクシスは、鏡越しに微笑んだ。
その笑みは、どこか満足げで、勝利を噛みしめているようだった。
「リーザは元気だよ。……少し、変わったけどな。」
エドマンドの手が、わずかに止まった。
「変わった、とは?」
アレクシスは、肩をすくめた。
「私室の侍女に暇をだしたとかで、今後は食事も、俺と一緒にしたいそうだ。いとこ同士、家族水入らずで、な。」
エドマンドの胸に、冷たいものが走った。
アンナ――彼が篭絡し、媚薬の運び屋として利用していた侍女。
彼女がいなくなった。
「代わりの侍女は?」
「入れないと言っている。お前の姪たち――二コラとルルがいるからとね。
小間使いというより、妹のように可愛がっているようだ。菓子をやったり、ゲームに興じたりな。リーザは、ずいぶんと明るくなった」
アレクシスの声に、親しげな響きが混じっていた。
エドマンドは、王太子の衣服を整えながら、内心で訝しがった。
(リーザ姫が……王太子と親しげに?)
これまで、リーザはアレクシスを明確に拒絶していた。
政略結婚の道具として扱われ、孤立した王宮で、誰にも心を開かなかった。
それが、突然――。
十二夜の夢の中で、ルシエルがリーザの心まで深く侵した後。
すべてが変わった。
エドマンドは、淡い灰色の瞳を伏せた。
(姫君の心に、何かが起きたのか……それとも、別の何か――)
王太子の背中に、朝の陽光が差し込む。
王宮は静かだった。
しかし、その静けさの奥に、大きな変化の予感が漂っていた。
エドマンドは、胸の奥で、護符のペンダントがほのかに温かくなるのを感じた。
ルシエルから受けた魔界の血が、静かに脈打っていた。
すでに計画どおり、十二夜の夢が人間界と魔界を、リーザとルシエルの夢をつないでいる。
いまは肉体だけだが、リーザ姫の心の全てまで、ルシエルが獲得しなければ意味がない。
そしてそれは、ただ唯一、ルシエルにしか出来ないことだった。




