24話 託されたもの
嵐の夜――。
魔界の空は黒く重く垂れ込め、激しい風雨が大地を叩きつけていた。
人間界から急遽呼び戻されたレジナルドは、濡れた黒いマントを翻し、馬車の扉を乱暴に開けると、屋敷の門前で飛び降りた。
レジナルドの銀縁眼鏡のレンズに、雨粒が飛び散る。
「ああ、レジナルドさん!こちらへ! 」
門番の声が風に混じって届く中、レジナルドは泥濘んだ石畳を駆け抜け、屋敷の玄関をくぐった。
玄関ホールには、女中頭のミス・アルマが待っていた。
「まずは着替えます、ミス・アルマ。
ルシエル様に報告しなければいけないことが沢山あって……この格好ではお目通りできない。
夜のうちに人間界へ戻ります」
ミス・アルマは渇いた清潔なタオルを手渡しながら、それを制した。
「先に家令様に会ってあげて。
今しがた目を覚まされたの……もう最期かもしれない。
貴方を何度も呼んでおられたわ、どうしてもレジナルドと話したいと」
息を切らしながら、長い廊下を進む。
人間界での作戦はひとまず順調に進んでいた。
王宮で、エドマンド・グレイとして潜入し、王太子アレクシスの信頼を得、姫の周囲を固めつつあった。
リーザ姫の侍女であるアンナを篭絡し、姫の飲み物や菓子に魔界の媚薬を仕込み、十二夜の夢をより深く繋ぐ計画――。
しかし、魔界からの緊急の呼び戻し――老家令アルフレッドの容態が急変したという報せが届いたのだ。
彼は階段を二段飛ばしで上り、アルフレッドの部屋へと急いだ。
部屋の扉を開けると、蝋燭の弱い灯りがゆらめき、重い空気が満ちていた。
ベッドに横たわるアルフレッドの姿は、すでに死の影を帯びていた。
老いた魔族の肌は青白く、息は浅く、細い指がシーツを弱々しく掴んでいる。
傍らには、数名の使用人たちが控え、静かに老家令の最期を見守っていた。
「レジナルド……よく戻って来てくれた……」
アルフレッドの声は、か細く、しかしはっきりとした意志を宿していた。
そして二人だけにしてくれ、と身振りで意思表示をし、部屋にはレジナルドだけが残された。
レジナルドは、嵐に濡れたままの姿でベッドサイドに膝をつき、老家令の手をそっと握った。
重く水を含んだ衣裳を、改める間も惜しんで駆けつけた彼の忠誠が、今、静かに寄り添う。
その手は、冷たく、しかし微かな温もりが残っていた。
長い間、この家門を支えてきた手の感触が、レジナルドの胸を締めつけた。
「閣下……お呼び出しに応じて、すぐに参りました。何なりとお申し付けください。」
アルフレッドは、ゆっくりと息を吐き、視線をレジナルドに向けた。
その目は、長い年月を生き抜いた魔族の叡智を湛えていた。
「時間がない……リーザ姫を魔界に迎え入れるための盟約書面……ほぼ整えられた。だが、最後の署名と封印……お前にしか出来ない……」
アルフレッドの指が、ベッドサイドの机を指す。
そこには、古い羊皮紙の束が置かれていた。
魔界と人間界の境界を繋ぐ、複雑な魔術の盟約。
リーザを正式にルシエル公爵の花嫁として迎え入れるための、法的・魔力的な文書。
レジナルドはそれを手に取り、内容を素早く確認した。
彼の人間としての知識と、魔界での経験が、この文書の完成に不可欠だった。
「出来そうか……いや、お前なら出来るはずだ」
「お任せください。必ずやり遂げます。」
アルフレッドは、弱々しく頷き、言葉を続けた。
「レジナルド……お前は人間だ。短い命……だが、だからこそ、お前に託す……ルシエル様を、支えてくれ……」
老家令の声は、徐々に震えを帯びた。
「先代の公爵様は……ベアトリチェ姫とルシエル様の過去によって……姫君を、自ら処断せざるを得なかった……。
ベアトリチェ様が、サタン陛下のご嫡子たるアスモデール殿下の婚約者であったからだ」
レジナルドの瞳が、わずかに揺れた。
彼はすでに、断片的にその過去を知っていた。
ベアトリチェの禁断の愛。
異母の美しい姉弟が、公爵家にもたらした破滅――。
アルフレッドの声は、涙で濡れた。
「サタン帝王に、領地の一部を返上し、先代のハデス公は自身の隠居を申し出られた……」
老家令の指が、シーツを強く握りしめた。
嵐の雷鳴が部屋を震わせる中、彼の言葉は、静かな激情を帯びていた。
「この醜聞で、名家から嫁がれた正室の娘、純血として生まれたベアトリチェ様を失った。
側室の子で、人間との半血の若いルシエル様が爵位を継いだことで……家門は後ろ盾を失い、危機に瀕している……現実を見据え……お前に、ルシエル様を支えてほしい……」
表向き――ベアトリチェの死は事故として片付けられていた。
先代の公爵のこれまでの功績が考慮され、かろうじて家門としての体裁だけは残った――。
公爵家の現状を
顧みるに、本来であれば早急に、ルシエルが魔界のいずれかの名家から純血の妻を迎え、婚家の支援でふたたび家門の隆盛を図るしかないはずだ。
いま人間界から、あえてリーザを”妻”として迎えることは、魔界でのルシエルの立場をさらに悪化させるのは明らかだった。
アルフレッドの目から、涙が一筋、零れた。
老いた魔族の顔は、苦痛と後悔に満ちていた。
レジナルドは、強く彼の手を握った。
この老人を、せめてもの安らぎのなかで見送りたかった。
「私はリーザ姫を、王宮で直接お見掛けしました。
美しく強く、そして賢い方でした。
あの姫君なら、ルシエル様の孤独を癒し、家門の未来を支えてくださるはずです」
「それは……良かった……。私は、あの方に……ルシエル様に幸せになっていただきたい。――それだけが私のねがいだ」
レジナルドは、静かに頭を下げた。
胸に熱いものが込み上げ、視界がぼやけた。
敬語を崩さず、しかし声に温かみを込めて、言葉を絞り出した。
「閣下……お約束いたします。私、レジナルド・チェンバースは、ルシエル閣下を支え続けます。
短い人生のすべてを、この家門に捧げます。」
アルフレッドは、満足げに目を閉じた。
「ありがとう……レジナルド……お前は……良い男だ……」
部屋に、静かな息遣いが満ちた。
アルフレッドの指が、最後にレジナルドの手を優しく握り返した。
それは、長い忠誠の証のように、温かく、しかし儚く感じられた。
「この魔法護符をお前に授ける……。
火喰鳥の依り代で、魔力を持たない人間のお前を守ってくれるはずだ。もう、私には必要なくなった」
それは、楕円形をした、古びた銀製のペンダントだった。
表面には赤銅色の炎のような文様が彫られ、中央に小さな火喰鳥の卵の欠片が埋め込まれている。
裏面には古魔族文字で「焔は守り、灰は還る」と刻まれていた。
「ベアトリチェ様は、私が連れていく……ルシエル様を、どうか頼む……」
嵐の音が、窓を叩く中、老家令アルフレッドの命は、静かに尽きていった。
レジナルドは、涙を拭うことなく、盟約書面を胸に抱き、部屋を後にした。
ルシエルへの報告を済ませた後、すぐにまた、嵐のなかを人間界へ戻らなければならなかった。
魔界の夜は、まだ深く、嵐は収まる気配を見せなかった。




