22話 つながる
自室のランプが、淡いオレンジの光を投げかけている。
リーザは椅子に深く腰を沈め、膝の上の古い詩集に目を落としていた。
ページをめくる指はゆっくりで、時折止まる。
次の十二夜に備え、リーザは少しずつ眠る時間をずらしながら、慎重に生活リズムを整えていた。
彼女が眠らないことで、十二夜の夢の中に侵入しようとするルシエルを拒む。
それが唯一、リーザに取れる防衛手段だった。
今日は少し頭が重い……ふわふわと落ち着かない。
うっかり眠ってしまわないように、少し刺激の強いハーブティーを口に運ぼうとカップに手を伸ばして……驚きのあまり、それを取り落とした。
カップが床に転がり、熱い液体が広がる。
そこに立っていたのは、黒い髪の少年だった。
「ルーク……」
ルシエルの少年時代――、ルークはあの時と同じように、どこか壊れそうな脆さを持つ瞳をしていた。
悲しみをたたえた紫の瞳。
リーザの心臓が大きく跳ねた。
ルークは言葉を発さず、リーザの手を強く掴んだ。
「リーザ、あいつが来る。……逃げよう」
声は震えていた。
リーザは驚きで目を見開いたが、抵抗する間もなく引き起こされ、二人はリーザの部屋を飛び出した。
彼の手は冷たい。
長い回廊を駆け抜け、誰もいない王宮の石畳に、二人の足音だけが響く。
燭台の炎が揺れて、影が追うように伸びる。
王立図書館の一角。古い書架の奥、埃っぽい隠し扉の裏に、ルークはリーザを押し込んだ。
「ここならまだ見つからない。あいつは怒っている。リーザがあいつを愛さないから――」
扉を閉めると、暗闇が二人を包む。
息が荒く、互いの鼓動が聞こえるほど近い。
ルークは壁に背を預け、震える声で言った。
「お前はあいつに狙われている。あいつは化け物だ。
自分の悲しみのために、自分で自分を壊そうとしていて、そこにお前を巻き込もうとしているんだ」
「……なぜ助けてくれるの」
ルークは顔を伏せ、唇を強く噛んだ。涙が一筋、頰を伝う。
「これ以上お前に嫌われたくなかった。お前に……本当は謝りたかったんだ」
声は途切れ途切れで、泣き虫の少年がそのままそこにいた。
リーザはそっと手を伸ばし、泣きじゃくるルークの頰に触れた。
大人の女性として、静かに、しかし確かな声で言った。
「もういいのよ。あなたは私を傷つけたけど、そのことであなたも苦しんでいた。……私はそれを赦すわ」
ルークは顔を上げ、涙に濡れた瞳でリーザを見つめた。
リーザは微笑み、幼い頃の記憶をそっと呼び起こした。
「覚えてる?あなたが私にプロポーズした時、私はこう言ったわ。『立派な殿方になったら、結婚してあげる』って」
ルークの目が見開かれた。
「リーザは約束してくれた」
優しく頷いた。
「ええ、約束したわ。だからあなたも忘れないで。」
その瞬間、図書館の空気が微かに震えた。
遠くから、誰かが夢の扉をこじ開ける音がする。
リーザはルークの手を握りしめ、囁いた。
「夢でも、現実でも……あなたが立派な殿方になるのを、私は待ってるわ」
ルークは涙を堪えきれず、リーザの肩に顔を埋めた。小さな嗚咽が漏れる。
「リーザ、ごめん」
彼女はそっと彼を抱きしめ、背中を撫でた。
「わたしは大丈夫。ルシエルのことは、彼と私の問題よ。もう、貴方とは関係ないわ。
ルーク、またいつか……私たち、お友達になれるわ」
泣きじゃくる少年を抱きしめながら、そっと彼の額に口づけした。
リーザは彼の髪を優しく撫で続ける。
外では、王宮の時計がゆっくりと時を刻み始める――
*
公爵邸の執務室の午前。
朝帰りのルシエルは、政務机に突っ伏したまま、微動だにしない。
黒髪が乱れ、シャツの襟元は昨夜のまま開け放たれ、首筋に赤い痕がいくつも残っている。
扉の外から、執事のトーマスと女中頭のミス・アルマが、中を覗き込んでいる。
「……起きていらっしゃるんだろうか。――ぴくりともされないが」
「さっき、水をがぶ飲みされていたわ。なんとか目の前の書類だけは裁こうという、意思の力を感じるわね」
彼女の視線は、ルシエルの背中に注がれている。
「あんなにひどく酔って帰られたのは初めてだと、門番もビックリしていたわ。
馬車から抱き起そうとした従僕を、二人も念波で吹き飛ばして」
その後ろ姿は、普段の冷徹な貴公子とは別人のように無防備で、どこか壊れそうに見える姿に、胸が締めつけられる。
「きっと何かご事情があったのだろうが、酒場から届く請求書のことを思うと、……こちらも頭が痛いな」
トーマスが、ため息混じりに言う。
「こんな時、レジナルドがいてくれたら…」
ミス・アルマも、小さく頷く。
「アルフレッド様も、もうほとんどお目覚めにならない日が増えてるわ。
でもレジナルドには使いをやってあるの。家令様は、どうしても彼に伝えたいことがあるとおっしゃって」
老いた家令の部屋は静かで、最近は息をしているかどうか確かめるために、毎日見回りが必要なほどだ。
二人はしばらく黙って、主人の姿を見つめていた。
ルシエルは微動だにしない。
が、意識ははっきりしている。
今確かに、……かすかに頭をよぎった夢のことを思い出していた。
城の中で、彼はリーザを見つける。
彼女は本を読んでいた。
ルシエルを見て驚く――。
しかし、嫌悪の表情はうかべなかった。
彼女の手を引き、誰もいない長い廊下を二人で走り出す。
何かに追われている不安に駆られて、彼女を守りたくてただ、走る。
彼女の手は温かい。
リーザが何か言う――
言葉は聞こえない。
必死でつたえたくて、ルシエルは口を動かすが言葉にならない。
なぜ伝わらないのかが悔しく、涙が止まらなくなる。
リーザが優しく微笑む。
彼をやさしく抱きしめ――
ルシエルの額にそっと口づけた。
額に触れたリーザの唇の柔らかさ、そのぬくもりが、まだかすかに残っていた。
ルシエルは、机に額を押しつけたまま、じっと虚空を見つめていた。
夢だったはずの感触が、現実の冷たい机に重なり、胸を締めつける。
王宮でのレジナルドの計画が、確実に動き始めた。
そしてついに、リーザと自分の夢が今、十二夜と同じようにつながったのだと、ルシエルは確かに悟った。




