21話 サタンの前妃
ルシエルとマルコの二人が、媚薬の煙にまみれてVIPルームで完全にぶっ飛んでいる最中――。
【天界の悦楽】のオーナーがそっと耳打ちしてきた言葉は、まるで冷たい刃のように、二人の熱を一瞬で切り裂いた。
「閣下……ナイメリア女公主殿下がお忍びでいらっしゃいます。別の部屋へご案内いたします」
ルシエルは、ゆっくりと顔を上げた。
瞳はまだ媚薬の残滓でぼんやりと濁っているが、その奥に一瞬、鋭い光が宿る。
「……ナイメリア様が?」
マルコは、隣で女の尻尾に巻かれながら、へらへらと笑っていたが、オーナーの言葉を聞いてようやく体を起こした。
「マジかよ……あのナイメリア様が? ここに来るって……マジでヤバいだろ」
マルコの声は興奮と緊張が入り混じり、普段の軽薄さが一瞬で吹き飛ぶ。
「あの方は年甲斐もなく、魔界でも人間界でもチョイチョイ遊んでるとは聞いてたけど、まさかこんな社交場にまで降りてくるとはな……」
オーナーは深く頭を下げ、静かに扉を開けた。
「女公主殿下は、あと半刻ほどでいらっしゃるとのこと……別のスイートをご用意しております」
「いや、俺はもう帰る。マルコ、すぐに服を着ろ」
媚薬の残り火が、まだ体を熱く疼かせているが、頭の芯は急速に冷えていく。
ルシエルたちはVIPルームを後にし、廊下を抜けて奥深い別のスイートへ案内された。
ここは「堕天使の淫巣」よりさらに静かで、黒い絨毯に蒼い結晶のランプが淡く灯る。
部屋の中央の黒檀テーブルには、すでに銀のトレイに二つのグラスと薄い琥珀色の酒瓶が用意されていた。
媚薬の残滓を中和し、頭を澄ますための特別な酒――オーナーの配慮だろう。
ルシエルはグラスを手に取り、ゆっくり一口含んだ。
冷たい液体が喉を滑り落ち、体に残る熱を静かに抑えていく。
ナイメリア女公主――。
帝王サタンの前妃でありながら、「性的不一致」を理由に婚姻契約そのものを取り消された女性。
年齢は千年を超えるが、外見は永遠に12歳前後の少女のまま。
サタンがその幼い肢体に欲情できなかったため、離婚は円滑に進み、莫大な領地と「王の最も愛する妹」として王族の一員として留まる特権を与えられていた。
現在は「王妹」の称号を持ち、広大な領土を事実上支配している。
サタンの嫡子アスモデールにとっては義理の伯母にあたる、高貴な存在だ。
そして、見た目の若さに似合わぬその奔放さは、魔界の公然の話題でもある。
儀礼の場で何度か、その冷たい美貌を遠目に見かけたことはあるが、ルシエルはまだ直接言葉を交わす立場ではない。
まして、今まさに散々に、淫蕩の限りを尽くしていた姿を晒したい相手でもなかった。
*
ナイメリア女公主殿下が【天界の悦楽】に現れた直後、ルシエルとマルコが慌てて後にしたVIPルーム”堕天使の淫巣”は、わずか数分のうちに、完全に生まれ変わっていた。
オーナーは扉の前で深く息を吸い、スタッフに目配せした。
「全員、配置につけ。殿下の足音が聞こえた瞬間から、一切の音を立てるな」
黒い絨毯の上を、音もなく四人のコンシェルジュが滑るように移動する。
一人は鏡面を魔力で磨き上げ、もう一人は空気浄化の結晶を交換し、三人目はベッドシーツを瞬時に銀糸入りのものに張り替え、四人目はトレイにナイメリア好みの銘酒と、淡い青い蜜菓子を並べる。
媚薬の残り香は、すでに別の香――甘く重い夜咲きの花の精油に完全に塗り替えられていた。
蒼い結晶ランプの光も、殿下の銀青色の髪に映えるよう、微妙に色温度を調整済み。
オーナーは最後に部屋を見回し、自分で扉の取っ手を拭いた。
「完璧だ」
その瞬間、廊下の奥から、軽やかな足音が近づいてきた。
扉が静かに開く。
ナイメリア女公主は、赤い薄絹のドレスを纏ったまま、ゆっくりと部屋に入った。
12歳ほどの幼い肢体に似合わぬ威厳と、夜の海のような藍色の瞳。
彼女は部屋を見渡し、かすかに唇を緩めた。
「……いい雰囲気ね」
「女公主殿下……このような夜更けに、当クラブへお越しいただき……誠に恐悦至極に存じます。
すべてご希望の通りにご用意いたしました。どうぞ、ごゆっくり…」
ナイメリアはオーナーの頭上を眺め、軽く手を振った。
「急に遊びたくなっちゃって……
今ここが一番若い貴族の子たちにアツいって聞いたの。下のフロアも凄い熱気ね。イイ感じじゃない」
オーナーは、半歩下がる。
「はは……殿下のお言葉、痛み入ります。本日は、こちらのVIPルームを殿下専用といたしました。
外部からの視線・魔力探知は完全に遮断しております。ご用命がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
「うふふ。私が来るって聞いて、この部屋で遊んでた若い子たちも飛び上がって逃げ出したでしょうね。悪いことしたわ」
ナイメリアはソファに腰を下ろし、銀糸のクッションに背を預けた。
トレイの蜜菓子を一つ摘み、口に運ぶ。
オーナーは深く頭を下げた。
「酒も殿下のご領地で近年流行の銘柄を、特別に取り寄せました。……お気に召しましたでしょうか」
透き通る白い肌に銀青色の長い髪が波打ち、幼い容姿に不釣り合いな赤いドレスは、どこか妖艶な色気をまとっていた。
ナイメリアは小さく笑う。
「ええ。とてもいい。
……それで? さっきまでVIPで遊んでいた貴族は、誰?」
オーナーの表情は一瞬も揺るがなかった。
「はい、殿下。ルシエル公爵閣下とご友人様がいらして、ちょうど殿下のご到着前にご退店なさいました。
……殿下のご来店を察知し、速やかにご配慮申し上げた次第でございます」
「ああ……あの若い、きれいな顔をしたルシエル公爵ね」
ナイメリアはグラスを手に取り、ゆっくりと回した。
「魔族と人間との半血の男の子だわ」
フロアの喧騒は、ここには届かない。
ただ、静かな夜の香りを、ナイメリア女公主はゆっくりと楽しんだ。




