18話 ねちねち
広間は、息を呑むほどの静寂に包まれていた。
蒼白い魔力結晶の光が、黒大理石の床に冷たく落ちる。
諸侯たちは玉座の周囲に控え、誰も一歩も動かず、ただ上席の玉座に腰掛ける帝王サタンの嫡男、アスモデールの次の言葉を待つ。
アスモデールは報告書の羊皮紙を指先でゆっくりとなぞり、赤い瞳を細める。
「……ルシエル公爵」
声は穏やかで、しかし底に氷のような棘を隠している。
「ここには、黒焔狼の討伐数、計三百二十七……とあるが」
彼はわざと間を置いて、ルシエルの顔を覗き込むように視線を落とす。
「これは、三百二十八ではないかな?」
羊皮紙の該当行が、魔力で赤く発光し始める。
数字の「7」が、まるで傷口のように脈打っている。
ルシエルは唇を固く結んだまま、微動だにしない。
(くそ、この男の前で失敗るとは――)
第一従者であるレジナルドを、人間界へ派遣した影響が、こんなつまらない”凡庸な失態”に繋がっているのは明らかだった。
レジナルドがいれば、このような初歩的な誤字は絶対に防げたはずだ。
陰日向に、献身的に支えてくれていたレジナルド不在の穴が、こんなところで痛いほどに響いている。
アスモデールはくすりと笑う。
「確認不足、か。いやいや、卿はまだ若い。公爵位を継いで何年になるか……まだ百年にも満たないのであったな?」
諸侯の間で、微かな衣擦れの音がする。
誰も口を開かない。
「年若なれど、卿はこれまでよくやってこられた。
その卿のこれまでの仕事ぶりから見れば、これは非常に珍しい”些細な”ミスだな」
アスモデールは羊皮紙を指で軽く弾き、ゆっくりと宙に浮かべる。
「とはいえ……だ。
ただ一度でも、こういうものを一つ間違えるだけで、報告全体の信憑性が揺らぐのではないか。
これまでの報告が完璧であれば、完璧であり続ける必要がある。
辺境の領民が『公爵閣下の報告は信用できない』と不満を漏らすやもしれぬ。
そうなれば……父上、サタン陛下のお耳にも入ることになるのではないか?」
ルシエルは沈黙する。
「いたって無表情だな。私の話は退屈かね?」
「殿下のお言葉、肝に銘じております。
今後はこのような失態を繰り返さぬよう、より一層、注意を払う所存です」
「それとも……卿は『数字など些細なこと』と考えておるのか?
それとも、卿の公爵としての責任感は、そんなものなのか?
隠居された父君、先代のハデス公も、これでは内心落ち着かないだろう。」
ルシエルの瞳が、わずかに揺れる。
アスモデールはさらに畳みかけた。
千載一遇の機会とばかり、目の前のルシエルを嬲るよろこびに暗く眼を光らせている――
「ルシエル公爵。
領地の管理、魔獣討伐の効率、報告書の形式……。
すべてにおいて、完璧なようで卿がまだ未熟であることが、この報告書一枚からも判った。
若い才能は磨かねば錆びる……」
アスモデールは羊皮紙を指で叩きながら、ゆっくりと続ける。
「卿も、公爵として諸侯の前に立つなら、もう少ししっかりしないと。
でないと、私のような年長者が……いつまでも心配せねばならなくなってしまうではないか」
大広間は凍りついていた。
「それにしても……あまりにも初歩的な誤字、だ。
こんなものをサタン陛下にお目にかけるわけにはいかないから、後で私の書記官に書き直させよう。
”有能な部下は、美しき妻よりも得がたい”というが、私はその点、”妻”にも部下にも恵まれていて幸いだ」
ルシエルの指先が、わずかに震える。
アスモデールは妻、とわざと口に出したのだ。
彼は、その動揺を見逃さない。
「妻と言えば、ルシエル卿はまだ一人身だが、そちらのほうも、はやく身を固めた方がよいな。
女がいないと、家門が安定しない。
そして家門がぐらつくと、政務にも影響が出る――」
手のひらを下に向け、ぐらぐらと"公爵家"が揺れる様子を模して見せた。
彼はゆっくりと報告書を閉じ、玉座に深く腰を沈める。
「ルシエル公爵――私は卿をまるで”弟”のように思っているからこそ、厳しく言うのだよ。
卿の姉上であるベアトリチェ姫は、私の婚約者だった。
もし彼女が生きていれば……卿は今頃、私の義弟だったろう。
一緒に酒を酌み交わし、魔界の未来を語り合っていたかもしれない。
……本当に、惜しいな」
大広間の空気が、さらに重くなる。
「あの美しさ、賢さ、気高さ――ほんとうに素晴らしい令嬢だった。
私たちは、本当に、かけがえのない女性を喪失したものだ。そう思わないか?」
ルシエルは、静かに、しかしはっきりと答える。
「……心から、そう思います、殿下」
広間には、ただ気まずい沈黙だけが流れた。
「今日はここまでとしよう。以後、気を付けるように」
ルシエルは一礼し、無言で大広間を後にする。
背中で、諸侯の視線が刺さる。誰も口を開かない。
誰かがくすりと笑いを漏らし、すぐに咳払いでごまかすのがわかった。




