16話 忠義者の井戸
城の裏庭、朝霧がまだ濃く残る時刻。
井戸の周りは石畳が湿り、苔の匂いが微かに漂っていた。
リーザ姫の侍女・アンナはいつものように、姫君の食事に使うための水桶を抱えて、一番水質の良い汲み場へ急いだ。
この井戸は、城内のどの井戸よりも澄んでいて、朝一番に汲めば冷たく甘い水が得られる——長年の経験で知っていた場所だ。
ところが、井戸に着くと、すでに人影があった。
エドマンド・グレイだ。
アンナは足を止めた。
(……またこの人だわ)
最近、図書館や厨房でよく見かけるようになった、リーザに執心するアレクシス王太子の召使。
銀縁の眼鏡を朝霧に曇らせ、黒い召使服の袖をまくり上げ、手桶に水を汲んでいる。
桶の底に溜まる水音が、静かな朝に響く。
銀色の髪に、薄い灰色の瞳――酷薄な光を湛えたその眼差し。
年齢のころは30代半ばの背の高い男で、とりわけ美男子というわけでもないが、不思議と視線を引き付ける何かがあった。
仕事で関わるわずかな機会には、冷たい目でアンナをじっと見つめる。
その言葉はいつも丁寧だが、どこか慇懃無礼にさえ感じた。
エドマンドはアンナに気づくと、無言で桶を満たし終え、静かに持ち上げた。
水面が揺れ、朝の光を細かく反射する。
「……お早うございます、アンナさん」
声は低く、抑揚がない。
アンナは一瞬、警戒したが、エドマンドは桶をそっと地面に置き、
「この井戸が一番清い水です」とだけ言った。
アンナの目がわずかに見開く。
「新しい方なのに、どうしてご存じなの?」
この汲み場は、城の使用人の中でも一部しか知らない。水質の良さは、長年汲み続けて体で覚えたものだ。
銀縁の眼鏡越しに、朝霧に濡れた井戸の水面を見つめながら、エドマンドはゆっくりと口を開く。
「城の井戸は、すべて地下水脈から水を汲んでいます。
しかし、その水脈の深さや流れ、土壌の質によって、水の味と清らかさが大きく変わるのです」
彼は井戸の縁に指を這わせ、静かに続ける。
「この井戸は、城内で最も深い層まで達しています。
およそ30メートル以上……表層の汚れた水ではなく、岩盤を長く通ってろ過された深層地下水です。
朝一番に汲めば、水温も低く保たれ、腐敗菌の繁殖も抑えられます。
だから、味も甘く、雑味がなく、喉越しが滑らかになります。紅茶も美味しく淹れられる。」
エドマンドはすこしも表情を変えなかったが、最後に言葉だけが少し柔らかくなった。
「貴女の手桶を……お預かりいたします。水は重いですから、お部屋の前まで私が運びます」
アンナは水桶を手渡しながら、わざと指先でエドマンドの手に触れた。
指先が触れ合った瞬間、エドマンドの体がぴくりと小さく震えた。
彼はすぐに表情を整え、何も言わずに桶を受け取ったが、その一瞬の反応はアンナの目にしっかりと映っていた。
(……ふふ、この人は女性にあまり慣れていないようね)
アンナは内心で小さく笑った。
冷たい眼鏡の奥の瞳はいつも無表情で、言葉遣いも慇懃無礼。
でも、手が触れたときのぴくりとした震え、わずかに強張った肩、すぐに抑え込もうとしたのに隠しきれなかった動揺。
すべてが、アンナの長年の経験が教えてくれる「男の弱点」を示していた。
(王太子様の召使なら、いま王宮内でどんな動きがあるかを知っているはず…。
みたところ30代半ばなのに、女性には不慣れで、私に触れられただけで動揺するなんて。
これは……使えるかもしれないわね)
アンナは自然に微笑みを深め、エドマンドの横に並んで歩き始めた。
水桶の重さは彼に任せ、自分は少しだけ体を寄せる。肩が触れそうな距離で、少し甘えた声で問いかける。
「貴方は…王太子様のために、この井戸へいらしたの?」
「貴女もリーザ様のためにいらしたのでしょう。
ここは城から一番遠い――。老人たちは”忠義者の井戸”と呼ぶそうです。
アンナさん……あなたはきっと忠義に厚い方だ」
思いがけず賞賛されて、アンナは思わず目を丸くした。
頰が、ほんのり赤らむのがわかる。
胸の奥で、ふしぎと何かが――温かく広がるのを感じた。
エドマンドはさらに続ける。
「私の方が朝来るのが早いようです。
もしよろしければ、明日からは貴女の分も汲んでおきましょうか?
城のどこかで落ち合えば、お互い忙しい朝の時間の節約になります。
……もし、貴女が構わなければですが」
「助かりますわ、エドマンドさん。貴方ってとても親切な方ね――何か御礼がしたいわ。
厨房にいらしてくだされば、私が焼いたパイを少し、夜にでもお持ちいたします。」
「ありがとうございます、それは楽しみです」
召使エドマンド・グレイは、冷たい眼鏡の奥から、少し唇を持ち上げて微笑んだ。




