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半血魔王のクロニクル<年代記> ~魔界で一番外道な貴公子~  作者: 古弥須 凱
第一部 黒き貴公子と贖われぬ花嫁
18/44

16話 忠義者の井戸

挿絵(By みてみん)



城の裏庭、朝霧がまだ濃く残る時刻。


井戸の周りは石畳が湿り、苔の匂いが微かに漂っていた。


リーザ姫の侍女・アンナはいつものように、姫君の食事に使うための水桶を抱えて、一番水質の良い汲み場へ急いだ。


この井戸は、城内のどの井戸よりも澄んでいて、朝一番に汲めば冷たく甘い水が得られる——長年の経験で知っていた場所だ。


ところが、井戸に着くと、すでに人影があった。

 

エドマンド・グレイだ。


アンナは足を止めた。


(……またこの人だわ)


最近、図書館や厨房でよく見かけるようになった、リーザに執心するアレクシス王太子の召使。

 

銀縁の眼鏡を朝霧に曇らせ、黒い召使服の袖をまくり上げ、手桶に水を汲んでいる。


桶の底に溜まる水音が、静かな朝に響く。


銀色の髪に、薄い灰色の瞳――酷薄な光を湛えたその眼差し。

 

年齢のころは30代半ばの背の高い男で、とりわけ美男子というわけでもないが、不思議と視線を引き付ける何かがあった。


仕事で関わるわずかな機会には、冷たい目でアンナをじっと見つめる。


その言葉はいつも丁寧だが、どこか慇懃無礼にさえ感じた。


エドマンドはアンナに気づくと、無言で桶を満たし終え、静かに持ち上げた。


水面が揺れ、朝の光を細かく反射する。


「……お早うございます、アンナさん」


声は低く、抑揚がない。


アンナは一瞬、警戒したが、エドマンドは桶をそっと地面に置き、

「この井戸が一番清い水です」とだけ言った。


アンナの目がわずかに見開く。


「新しい方なのに、どうしてご存じなの?」


この汲み場は、城の使用人の中でも一部しか知らない。水質の良さは、長年汲み続けて体で覚えたものだ。


銀縁の眼鏡越しに、朝霧に濡れた井戸の水面を見つめながら、エドマンドはゆっくりと口を開く。


「城の井戸は、すべて地下水脈から水を汲んでいます。

しかし、その水脈の深さや流れ、土壌の質によって、水の味と清らかさが大きく変わるのです」


彼は井戸の縁に指を這わせ、静かに続ける。


「この井戸は、城内で最も深い層まで達しています。

およそ30メートル以上……表層の汚れた水ではなく、岩盤を長く通ってろ過された深層地下水です。

 

朝一番に汲めば、水温も低く保たれ、腐敗菌の繁殖も抑えられます。

だから、味も甘く、雑味がなく、喉越しが滑らかになります。紅茶(ティー)も美味しく淹れられる。」


エドマンドはすこしも表情を変えなかったが、最後に言葉だけが少し柔らかくなった。


「貴女の手桶を……お預かりいたします。水は重いですから、お部屋の前まで私が運びます」


アンナは水桶を手渡しながら、わざと指先でエドマンドの手に触れた。


指先が触れ合った瞬間、エドマンドの体がぴくりと小さく震えた。


彼はすぐに表情を整え、何も言わずに桶を受け取ったが、その一瞬の反応はアンナの目にしっかりと映っていた。


(……ふふ、この人は女性にあまり慣れていないようね)


アンナは内心で小さく笑った。


冷たい眼鏡の奥の瞳はいつも無表情で、言葉遣いも慇懃無礼。


でも、手が触れたときのぴくりとした震え、わずかに強張った肩、すぐに抑え込もうとしたのに隠しきれなかった動揺。


すべてが、アンナの長年の経験が教えてくれる「男の弱点」を示していた。


(王太子様の召使なら、いま王宮内でどんな動きがあるかを知っているはず…。

 

みたところ30代半ば(いいとし)なのに、女性には不慣れで、私に触れられただけで動揺するなんて。

これは……使えるかもしれないわね)


アンナは自然に微笑みを深め、エドマンドの横に並んで歩き始めた。


水桶の重さは彼に任せ、自分は少しだけ体を寄せる。肩が触れそうな距離で、少し甘えた声で問いかける。


「貴方は…王太子(プリンス)様のために、この井戸へいらしたの?」


「貴女もリーザ様のためにいらしたのでしょう。

ここは城から一番遠い――。老人たちは”忠義者の井戸”と呼ぶそうです。

アンナさん……あなたはきっと忠義に厚い方だ」


思いがけず賞賛されて、アンナは思わず目を丸くした。

 

頰が、ほんのり赤らむのがわかる。

 

胸の奥で、ふしぎと何かが――温かく広がるのを感じた。


エドマンドはさらに続ける。


「私の方が朝来るのが早いようです。

もしよろしければ、明日からは貴女の分も汲んでおきましょうか?

 

城のどこかで落ち合えば、お互い忙しい朝の時間の節約になります。

……もし、貴女が構わなければですが」


「助かりますわ、エドマンドさん。貴方ってとても親切な方ね――何か御礼がしたいわ。


厨房にいらしてくだされば、私が焼いたパイを少し、夜にでもお持ちいたします。」


「ありがとうございます、それは楽しみです」


召使(サーヴァント)エドマンド・グレイは、冷たい眼鏡の奥から、少し唇を持ち上げて微笑んだ。



▼次話

17話 堕とす

挿絵(By みてみん) 

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