15話 清しい花
ふと、リーザ姫は、傍らに生けられた花に目をやった。
深い青色が美しい縹竜胆が、知らない間に飾られていた。
「ありがとう、アンナ。とても清しい、私の好きな色だわ」
リーザの微笑みに、侍女のアンナもうれしそうに答える。
「ええ、私もこの花をひとめ見た時、きっとリーザ様にお似合いだと思いました。
……王太子様からのご配慮でございます」
「アレクシスの?」
リーザの表情が、訝しげに曇った。
「これまでの彼の趣味とは、ずいぶん違うわね。
いつもなら、もっと……装飾的してたわよね」
リーザは角度を変えながら、美しい縹色の竜胆を眺める。
「でも、……このまま飾っておくわ。とても綺麗だから。
アレクシスとは一言だって口を利きたくないけど、この花については、主義を変えてお礼を言いたくなるわね」
「きっと王太子様がお選びになったものではございませんでしょうけれど。
今朝になって突然、王太子様の召使に呼び止められて、私がびっくりしていますと、突然このお花をリーザ様のお部屋へどうぞと手渡されたのですから」
「その人、お前を口説いていたのではないの?」
リーザがからかうように言うと、十ほども年上のアンナが頰を赤らめながら首を振る。
「それが、その男はなんだか……表情に何も出さず、にこりともしない人でした。
銀縁の眼鏡の向こうから、冷たい目で私をじっと見て、すぐに立ち去ってしまいましたわ」
「とてもきれい。――あのそそっかしい子たちがまた花瓶を真っ二つにする前に、私の寝室に移そうかしら」
リーザは悪戯っぽく笑う。
隣の部屋では、双子の小間使い、ニコラとルルが一生懸命にハタキを動かしている。
茶色の髪を揺らし、大きな瞳を輝かせながら、調度品の埃を落とそうと悪戦苦闘している姿が、リーザの視界に入る。
「どこかの公爵家で小間使いをしていたってことでしたけど――」
「見て、頑張ってるわね。私は部屋から出られないのに、あの子たちに何か仕事を作ってあげられるの?」
「ひとまず、リーザ様の大事な御本やお手紙を台無しにしないように、高いところへよけておきます」
アンナが短くため息をつく。
「はじめて子猫を飼ったときのことを思い出すわ。あちこちガチャンガチャンひっくり返して回るんだもの」
アンナが慌てて隣室へ向かい、お小言を始める。
(いつものアレクシスの密偵とは、ぜんぜん雰囲気が違うわね)と、リーザはすこし呆れて呟いた。
雰囲気と、いうよりはむしろ……。
ニコラとルルは、ハタキを握りしめながら、時々目を合わせてはくすくす笑い合っている。
王宮でのリーザの生活は、常に覗かれ、監視されてきた。
読む本、送る手紙、礼拝、わずかな時間の散歩――どこへ行くにも、王太子の監視が付きまとう。
父が薨じ、叔父が国王となってからは、城外への一歩さえ許されず、リーザは完全な「籠の鳥」になっていた。
縹竜胆の深い青に指先で触れながら、この花はどこに咲いていたのだろう、とリーザは思った。
いつか自由になれたら――美しい庭園で――お茶を飲みながらゆっくりと花々を愛でて過ごしたい。
愛する夫に寄り添い、走り回る子供たちの声が響く……。
この不思議と青い花は、いつしか忘れかけていた、リーザの少女らしい夢物語を思い出させた。
縹竜胆の花言葉。
”悲しんでいるあなたを愛する”。
「――きれいだわ」
確かめるように、リーザは呟いた。
*
粗末な召使用の寝台に横たわったエドマンド・グレイは、裸の胸の上に淫魔の仔を乗せたまま、思いつくままにペンを走らせていた。
薄暗い部屋のランプは、弱々しく揺れている。
空気は湿っぽく、微かなカビの匂いと、双子の甘い体臭が混じり合っていた
リーザが口にするものは、日常の食事・菓子・飲み物について、すべてお付きの侍女一人が、自らの手で調理することが徹底されており、例外なし。
日中は読書、わずかな時間の散歩。
週に何度かの礼拝時に、王宮図書館に立ち寄ることがある。
まるで修道女のような生活――私室から出るときは、必ず護衛としてアレクシスの武官が数名付き従う。
リーザと侍女のアンナが、毒物について常に警戒しているのは想定外だった。
父王の死因は病没とされているが、何か関連があるのかも知れない。
双子を使って、日常的に微量の媚薬を仕込む計画だったが、どうするか――。
Anna――と、リーザの侍女の名前を大雑把な丸で囲んだ。
彼女が重要人物だ。
リリアはもう、小さな寝息をたてて傍らで眠っている。
その細い肩に、片手で薄い毛布を掛けなおしてやり、エドマンドは銀縁のメガネを指先で軽く押し上げた。
裸のソフィアが退屈そうにぐらぐらと体を揺さぶると、ペン先の文字が乱れて波を打った。
「大人しくしてなさい、ルル」
「ねーねー♡レジナルドさーん、もうそれ止めようよお~。
なんでずーっとエドマンド伯父さんのまんまなのよぉ~。
ソフィアわぁ~レジナルドさんとお話がしたいのにぃ~」
ぱたぱたと両足を交互に跳ね上げながら、ソフィアが駄々をこねる。
「我儘いうんじゃない。ルシエル様のためにも、この作戦は絶対に失敗できないと何度も言っただろう。」
眼鏡を光らせて、じっとソフィアを見下ろした。
「全てを終えて王宮を出るまでは、私はエドマンド・グレイで、お前たち……二コラとルルの伯父だ。
常に集中して、一瞬も気を抜きたくない。少しの失態で取返しが付かなくなるのが怖い」
「エドマンド伯父さんゎ、ずーっと怖いからきらーい。レジナルドさんは優しかったのにぃ~。
伯父さんになったらすぐ怒るしぃ、口の中にぐーって指入れてイーッってしたじゃん」
「全ては、ご主人様の為だ、我慢しなさい。ルルが頑張ってくれれば、必ず成功する」
また忙しくペンを走らせるエドマンドの視界の前で、ソフィアはひらひらと手のひらを掲げて邪魔をした。
「えーんえーん、レジナルドさんに会いたいよ~。
いつもならなんでも”ええよ、ええよ”って我儘きいてくれるのにぃ~
王宮にきてから、ずーっと意地悪な伯父さんになっちゃったぁ」
「今は仕方がない。私の邪魔をしてないで、もう寝なさい」
「ソフィアわぁ~、エドマンド伯父さんの声がいやー!
冷たいしぃ、レジナルドさんみたいに優しくないんだもん。
すんごい意地悪な声。物まねできるよ、”この娘は男に奉仕するために――”」
「ソフィア、俺にちゅー♡してくれや」
ふいに、目の前からレジナルドの優しい声がして、淫魔の仔は顔を上げた。
「レジナルドさん、いるじゃん!!」
「俺はおるよ、でもその話はせんでくれ。俺は弱いから耐えられへんねん」
大好きな年長者に会えたソフィアは笑顔になり、ちゅーっと口で言いながら顔を近づける。
「ちゅー♡したら、俺はエドマンド伯父さんに戻るけど、俺はちゃんとおるから。
ええな、もう俺が出てこんくても、泣き言いうなや。――わかったか?」
「えーよぉ♡」
「なに真似しとんねんアホ」
レジナルドがソフィアを抱き寄せ、優しく口づける。
その唇がほんの一瞬だけ温かく濡れ、すぐにまた冷たい仮面の顔に戻った。
「――もう寝なさい、ルル」
エドマンド・グレイは眼鏡を傍らに置くと、薄い灰色の瞳を閉じた。




