第九章「取り残された時間」
望月徹を発見した翌日、亮たちは役場の会議室に集まっていた。
蓮見は、朝からずっと、顔色が悪かった。
「望月さんを……このまま、放っておくんですか」
「今は、他に方法がありません」
霧島の声は静かだったが、その静けさの中に、深い苦さが滲んでいた。
「無理に近づけば、深沢さんまで、同じ目に遭う。それだけは、避けなければなりません」
蓮見は、拳を握りしめた。
「でも、望月さんは、まだ生きている。声を上げ続けている。それを知りながら……」
「分かっています」
霧島が、短く答えた。
それきり、三人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
窓の外から、旧市街の方角の、変わらぬ静けさが漂ってくる。
亮は、その沈黙の中で、ずっと考えていたことがあった。
「霧島さん。一つ、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「大野さんは、三週間、境界の中にいました。それなのに、本人の体感は、数分から半日程度だと言っていました。身体の消耗も、脱水症状程度で……三週間も飲まず食わずだったにしては、軽すぎる」
霧島は、黙って続きを促した。
「一方で、僕が初めて境界に入った時は、体感で一分にも満たなかった。蓮見さんが外で見ていた時間も、同じく一分程度だったはずです。なのに、録音機には、三十七分という記録が残っていた」
亮は、一度言葉を切った。
「これは……矛盾していませんか。僕の場合は、境界の中の時間の方が、外よりも多く進んでいた。でも大野さんの場合は、逆に、境界の中の時間の方が、外よりずっと少なく進んでいた」
霧島の目が、わずかに見開かれた。
「……確かに、そうですね」
「単なる個人差、では片付けられない気がします」
霧島は、しばらく黙り込んでから、資料館から持ってきていた古い記録帳を、テーブルの上に広げた。
黄ばんだページに、達筆な文字で、いくつかの記述が並んでいる。
「深沢さん。この記録帳には、境界に触れた者たちの証言が、いくつか残されています。今まで、あまり注目していなかったのですが……」
霧島は、指先で、記述の一つをなぞった。
「浅く、短く触れた者は、決まって、外よりも中の方が、多くの時間が過ぎていたと証言しています。深沢さんのケースと、同じです」
「では、大野さんのように、長く留まった者は」
「記録は、多くありません。ですが……唯一残っている証言に、こうあります。『長く留まるほど、時間は動かなくなる。まるで、そこだけ、世界から取り残されたように』」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
「取り残される……」
「浅く触れれば、時間は凝縮されるように進む。ですが、奥に長く留まるほど、逆に、時間そのものから置き去りにされていく。そういうことなのかもしれません」
霧島は、記録帳を閉じた。
「もしこの仮説が正しいなら……望月さんは、今この瞬間も、私たちが思っているよりずっと短い体感時間の中で、あの叫びを上げ続けているのかもしれません」
「それは、救いなんでしょうか。それとも」
亮は、言葉を続けられなかった。
体感時間が短いということは、苦しみの総量が少ないということなのか。それとも、時間の感覚さえ奪われたまま、終わりの見えない今を、永遠に彷徨っているということなのか。どちらであっても、恐ろしさは、少しも減らなかった。
その夜、亮は宿の部屋で、ノートパソコンを開いた。
第一章の調査で録音した、自分自身の声のデータを、久しぶりに呼び出す。
大野や望月の録音データに見られた、あの不自然に平坦な呼吸音。もし自分の声にも、同じ特徴が紛れ込んでいるとしたら……。
亮は、深呼吸を一つしてから、再生ボタンを押した。
自分の声が、スピーカーから流れ出す。息づかいは……いつも通りに、聞こえた。少なくとも、耳で聞く限りは。
だが、亮は、それを素直に信じることができなかった。大野の異常も、望月の異常も、耳で聞いただけでは分からなかった。波形を解析して、初めて見えてきたものだった。
亮は、震える手で、波形解析ソフトを立ち上げた。
画面に、自分の声の波形が、緑色の線となって描き出されていく。
亮は、その線を、じっと見つめた。




