第八章「見つけたもの」
大野の発見から、三日が経った。
境界は、相変わらず拡大を続けていた。旧市街の三分の一を超え、今では望月徹の自宅があった一角どころか、その先の小学校の裏手まで、静寂の領域は広がっている。
「深沢さん。望月さんの家を、もう一度、見に行きたいと思います」
霧島がそう切り出したのは、資料館での打ち合わせの席だった。
「大野さんが、外れで発見されたということは……もしかしたら、望月さんも」
亮は、身を乗り出した。
「はい。ただ、望月さんの自宅は、今の境界では、かなり奥に入ります」
「僕も、行かせてください」
霧島は、亮の顔を、じっと見つめた。
「……危険を伴うことは、覚悟しておいてください」
「分かっています。このまま何もせずに待つ方が、僕には耐えられません」
霧島は、しばらく黙り込んでから、頷いた。
「分かりました。蓮見さんにも、声をかけておきます。ただし……今回は、深沢さんが境界の中に入る時間は、絶対に十分以内に抑えてください」
「約束します」
翌日の午後、亮は霧島、蓮見と共に、境界の際に立っていた。旧市街に踏み入るごとに、周囲の音が少しずつ薄れていく感覚は、以前と変わらない。だが今日は、その感覚に、以前にはなかった重さが混じっていた。
「深沢さん、これを」
霧島が、小型の録音機を渡してきた。
「境界内では、耳では聞こえなくても、機材には記録されます。何かあったら、必ずこれで」
「分かりました」
亮は録音機を受け取り、境界の内側へと足を踏み入れた。
一歩踏み込んだ瞬間、周囲の音が、完全に消えた。自分の足音も、息づかいも、何も聞こえない。だが、その静けさには、もう恐怖より先に、慣れのようなものが混じっていた。
……この感覚に、慣れてしまっている自分が、一番怖い。
亮は、その考えを振り払うように、望月家へと足を進めた。
望月家は、記憶にあるよりも、ずっと荒れていた。庭の草は伸び放題で、玄関の引き戸は、半分開いたままになっている。
亮は、引き戸の隙間から、中を覗き込んだ。
三和土に、望月徹の履き物が、あの日と変わらず並んでいる。だが、家の奥、居間へと続く廊下の先に……何かが、見えた。
亮は、息を止めた。
廊下の突き当たり、居間の入り口のあたりに、望月徹が、座り込んでいた。
背中を壁に押し付けるようにして、膝を抱え、うつむいている。生きているのか、そうでないのか、その姿勢からは判別がつかなかった。
「……望月さん」
声は、当然、届かない。亮は分かっていながら、それでも呼びかけずにはいられなかった。
望月は、動かなかった。
亮は、一歩、また一歩と、廊下を進んだ。録音機だけを、前に突き出すようにして。
……望月さん。
その時、望月の頭が、ゆっくりと持ち上がった。うつむいていた顔が、糸で引かれるように、少しずつ、少しずつ、正面を向いていく。
亮は、その場に凍りついた。
近づくにつれて、その姿の異様さが、はっきりと見えてきた。
望月の顔は、完全に、上げられていた。目は大きく見開かれ、口も、限界まで開かれている。まるで、力の限り、何かを叫んでいるかのような形相だった。だが、そこから、何の音も、漏れていない。
亮の全身に、鳥肌が立った。
望月の身体は、微かに震えていた。死んでいるのではない。生きたまま、あの表情のまま、声にならない叫びを、上げ続けている。
亮は、思わず後ずさった。だが、その拍子に、廊下の床板が軋んだ音……のはずが、何も聞こえなかった。ただ、足の裏に伝わる振動だけが、廊下が軋んだことを教えてくれた。
その振動に反応するように、望月の目が、ゆっくりと、亮の方を向いた。
亮は、その場に凍りついた。
望月の目は、亮を見ていた。だが、そこに宿っていたのは、助けを求める光ではなかった。ただ、ひたすらに、何かに耐え続けているだけの……空虚な光だった。
望月の口が、さらに大きく開かれた。声にならない叫びが、より強く放たれているのが、その表情から分かった。だが、亮の耳には、依然として何も届かない。
……声が、届かない。
それは、これまで何度も確認してきた、この場所のルールだった。だが、今、目の前で人が、声にならない絶叫を上げ続けているという事実の前では、そのルールが、これまでとは比べ物にならないほどの重みを持って、亮に迫ってきた。
亮は、震える手で、録音機を望月に向けたまま、後ずさりを続けた。玄関まで戻り、外に飛び出す。
境界を越えた瞬間、亮の耳に、自分自身の荒い息づかいが、一気に戻ってきた。
「深沢さん!」
霧島と蓮見が、駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか! 顔が、真っ青です」
亮は、答える代わりに、震える手で録音機を差し出した。
「……望月さんが、いました」
「本当ですか?」
「生きています。ですが……」
亮は、言葉に詰まった。あの光景を、どう言葉にすればいいのか、分からなかった。
「叫んでいました。ずっと、叫び続けていました。でも……声は、一切、聞こえませんでした」
霧島の顔から、血の気が引いていった。
「深沢さん。今の録音機、確認してもいいですか」
亮は、無言で頷いた。
霧島は、その場でヘッドフォンを繋ぎ、再生を始めた。しばらく無言で聞いていたが、やがて、その顔が、はっきりと強張った。
「……聞こえます」
「え?」
「望月さんの、声が。機材には、記録されています」
霧島は、ヘッドフォンを亮に手渡した。
亮は、恐る恐る、それを耳に当てた。
ノイズの向こうから、掠れた、絞り出すような声が聞こえてきた。それは、言葉にならない、ただの絶叫だった。だが、その絶叫の合間に、微かに、人の言葉のようなものが混じっていた。
……たすけ……て。
亮は、ヘッドフォンを外した。手が、止まらないほど震えていた。
「霧島さん。望月さんは……助けを、求めていました」
「はい」
「なのに、僕たちには、届かない。目の前にいるのに、何もできない」
亮は、勢いのまま、霧島に詰め寄った。
「無理やりにでも、引きずり出すことは、できないんですか。僕一人でも、腕を掴んで、外まで連れて行けば……」
霧島は、静かに首を振った。
「タネの記録に、似たような話が残っています。二百年前、境界の奥で消えた者を、力ずくで連れ戻そうとした男がいた、と」
「それで……?」
「男は、その者の腕を掴んで、境界の外まで、確かに連れ出したそうです。ですが……外に出た時には、掴まれていた方も、掴んでいた男の方も、二人とも、誰にも認識されなくなっていた」
「なら……その話は、誰が?」
亮は、当然の疑問を口にした。誰にも認識されなくなったのなら、その顛末を誰が記録できたのか。
「男自身です」霧島は、静かに答えた。「男は、記録係の家系の者でした。タネと同じ血筋の」
「本人が、自分の身に起きていることに、気づけたんですか?」
「はい。家に戻っても、家族が誰も振り向かない。呼びかけても、返事がない。まるで、そこにいないもののように、扱われ続けたそうです。それで、自分がもう、あちら側に……あの人たちと同じ場所に、足を踏み入れてしまったのだと、悟ったと」
「それで、記録を」
「はい。ですが……書き進めるうちに、様子がおかしくなっていったようです。筆先が紙に触れているはずなのに、次第に、その感触が薄くなっていく。声を出そうとしても、自分の耳にすら、届かなくなっていく。身体が消えていくのではなく……この世界に、指一本、触れられなくなっていく感覚だったと、記録には残されています」
「では、書き終えた後は」
「その先の記録は、ありません。恐らく……指すら、紙に届かなくなったのだと思います」
霧島は、目を伏せた。
「届かない者に触れた人間は、その者と同じ側に、引きずり込まれる。それが、その記録が伝える、唯一の教訓です」
亮は、望月の、あの見開かれた目を思い出した。
「触れることさえ、できないということですか」
「はい。今の望月さんに触れれば、深沢さんまで、あちら側に……」
霧島は、そこで言葉を切った。それ以上は、口にしたくない、というように。
亮は、拳を握りしめた。目の前に、確かに人がいる。助けを求めている。それなのに、指一本、伸ばすことすら許されない。
霧島は、亮の肩に、そっと手を置いた。
「深沢さん。今すぐ、彼を助け出す方法は、ありません。でも……これで、分かったことがあります」
「何が、ですか」
「境界の中にいる者は、決して、声を失っているわけではないということです。彼らは、今も、叫び続けている。届かないだけで」
その言葉は、亮の胸に、これまで以上に重く突き刺さった。
……届かないだけで、叫び続けている。
それは、望月徹だけの話ではないかもしれない。境界の中で消えた、すべての者たちが、今この瞬間も、誰かに届くことのない声を、上げ続けているのだとしたら。
亮は、旧市街の方角を振り返った。今日も、そこは変わらぬ静けさに沈んでいる。だが、その静けさの奥で、いくつもの声が、重なり合うように、叫び続けているのだと思うと、亮はもう、その静寂を、ただの「無音」として片付けることができなくなっていた。




