第七章「再会」
その報せが届いたのは、早朝のことだった。
「深沢さん! すぐに来てください!」
蓮見からの電話は、これまでで一番、切迫した声をしていた。
「どうしたんですか?」
「境界の外れで……人が、倒れていて。それが……」
蓮見は、言葉に詰まった。
「それが、何ですか?」
「大野さんです。町内会長の、大野正一さんです」
亮は、息を呑んだ。大野正一……それは、三週間前に最初に行方不明になった人物の名前だった。
現場に駆けつけると、大野は、道端に座り込んでいた。作業着は土埃にまみれ、ひどく憔悴した様子だったが、目立った外傷はないように見えた。
蓮見が、大野の傍らに膝をついていた。その顔には、驚きと安堵と、そして隠しきれない困惑が入り混じっていた。
「大野さん、大野さんですよね? 本当に、大野さんですか?」
大野は、虚ろな目で蓮見を見上げた。
「……蓮見、くん? どうして、そんな顔を」
「大野さん! 良かった、本当に、良かった……!」
蓮見の目に、涙が浮かんでいた。だが、大野の方は、状況が呑み込めていない様子だった。
「一体、何なんだ。私は、朝の見回りをしていただけだが」
亮は、その言葉に、違和感を覚えた。
「大野さん。今日の日付を、覚えていますか?」
大野は、亮の方を見た。見知らぬ顔に対する、警戒の色が浮かぶ。
「あんたは、誰だ?」
「深沢と申します。音響技師です。この町の調査で……」
「調査? そんな話は、聞いていないが」
蓮見が、震える声で口を挟んだ。
「大野さん。今日の日付は、三週間前の、あの日から……」
「三週間? 何を言っている。私は、今朝、見回りに出たばかりだ。旧市街のあの一帯が、妙に静かだと思って、様子を見に入って……」
大野は、そこで言葉を止めた。何かを思い出そうとするように、眉間に皺を寄せる。
「……様子を見に、入って?」
「その先が……思い出せない。気がついたら、ここに、座り込んでいた」
亮と蓮見は、顔を見合わせた。
「大野さん」亮は、慎重に言葉を選んだ。「あなたが行方不明になってから、今日で、ちょうど三週間になります」
大野の顔から、血の気が引いていった。
「……三週間?」
「はい。町中が、あなたを捜していました」
大野は、自分の両手を見つめた。それから、震える声で言った。
「そんな、馬鹿な。私の感覚では……ほんの数時間のことだったはずだ」
大野は、町の診療所で簡単な検査を受けた後、役場の一室で休むことになった。目立った外傷や栄養失調の兆候はなく、脱水症状が見られる程度だという。三週間、どこでどう過ごしていたのか、身体的な痕跡からは、何も分からなかった。
亮と霧島、蓮見の三人は、大野の証言を、慎重に聞き取ることにした。
「大野さん。境界の中に入ってから、何か、覚えていることはありませんか? どんな小さなことでも構いません」
大野は、しばらく目を閉じ、記憶を辿るような表情を見せた。
「……静かだった。それだけは、覚えている。自分の足音も、息づかいも、何も聞こえなかった」
「それから?」
「誰かが……いた気がする。声をかけられたような、気もするが……はっきりしない。まるで、深い水の底にいるような感覚だった」
霧島が、身を乗り出した。
「声をかけられた、というのは。どんな声でしたか」
「分からない。ただ……名前を、呼ばれたような」
亮の心臓が、跳ねた。あの録音データの記憶が、脳裏をよぎる。
「大野さん。それは、あなたの名前でしたか」
大野は、困惑した表情で首を振った。
「……分からない。自分の名前だった気もするし、違う気もする。何かに、呼ばれ続けていた……そんな感覚だけが、残っている」
亮は、霧島と目を見交わした。霧島の表情にも、緊張が浮かんでいた。
「大野さん、最後に一つ。あなたが今、こうして戻ってきた理由に、心当たりはありますか?」
大野は、力なく首を振った。
「何も、分からない。ただ……」
「ただ?」
「誰かに、押し出されたような。あるいは……もう用済みだと、言われたような。そんな、気がする」
その言葉に、部屋の空気が、一段と重くなった。
大野が休息のために部屋を後にした後、亮たちは廊下で、小さく言葉を交わした。
「霧島さん。大野さんの声を、録音させてもらいました。専門的に、分析してみたいと思います」
「何か、気になることが?」
亮は、慎重に言葉を選んだ。
「話している間、大野さんの息づかいが、ほとんど聞こえませんでした。呼吸をしていないわけではないはずですが……人が話すときに、普通、混じるはずの吐息や、間の空気の揺れが、極端に少なかった」
蓮見が、不安げな顔をした。
「それは……境界の中にいる間に、何かが、大野さんに起こったということですか?」
「分かりません。ただの、聞き間違いかもしれません。ただ……気になったので、記録しておきたいと思いました」
霧島は、しばらく考え込んでから、静かに言った。
「深沢さん。私は、大野さんが、大野さん本人だと思います。三週間、境界の奥にいて、押し出されるように戻ってきた。それは、事実だと思います」
「では、その息づかいのことは?」
「境界の中で過ごした時間が、彼の身体の一部を、まだ、あちら側に残しているのかもしれません。……完全には、戻り切っていない、というべきでしょうか」
亮は、その言葉に、背筋が冷えるのを感じた。
「もし、それが本当なら……境界は、人を取り込むだけでなく、時々、こうして押し出すこともある、ということですか?」
「はい。そして、それが何を意味するのか……境界の拡大が加速していることと、無関係ではない気がします」
窓の外では、旧市街の方角から、今日も変わらぬ静けさが漂ってきていた。だが、その静けさの奥に、何かが蠢いているような気配を、亮はもう、拭い去ることができなくなっていた。
その夜、亮は宿の部屋で、大野の声を録音したデータを、何度も聞き返していた。
波形を見る限り、大野の声はきちんと記録されている。だが、声と声の間にあるはずの、微かな呼吸音……その部分だけが、不自然なほど平坦だった。まるで、そこだけ何かが上書きされているかのように。
亮はふと、望月徹の録音データを思い出し、二つの波形を並べて表示した。
比較してみると、共通点があった。望月徹の家から聞こえた、あの押し殺した嗚咽の合間にも、同じような不自然な平坦さが、わずかに紛れ込んでいたのだ。
……境界の中に長くいた者には、共通して何かが起きている。
亮は、その考えに行き着いた瞬間、自分の録音データのことを思い出さずにはいられなかった。あの日、境界の中で三十七分間過ごした自分の声にも、同じ平坦さが紛れ込んでいるのではないか。
亮は、震える手でファイルを開いた。
再生した自分の声は……確かに、聞き取れる限り、いつも通りだった。だが、亮にはもう、それを素直に信じることができなかった。
翌朝、亮は霧島に、望月徹のことを切り出した。
「霧島さん。大野さんが戻ってきたということは……望月さんも、まだ戻ってくる可能性がある、ということですよね」
霧島の表情が、わずかに曇った。
「可能性は、あると思います。ですが」
「ですが?」
「大野さんが、境界の外れで見つかったのに対して、望月さんは……自宅の中で、姿を消しています。境界の、もっと奥深くにいる可能性が高い」
「奥にいる者ほど、戻ってくるのが難しい、ということですか」
「分かりません。ただ、もし望月さんが戻ってくるとしても……それが、大野さんのように、望月さん本人のままである保証は、ないと思います」
その言葉の意味を、亮は問い返すことができなかった。旧市街の方角に目をやる。今日もそこは、変わらぬ静けさに沈んでいる。だが、その静けさの向こうで、望月徹が今、どんな姿で、何を待っているのか……亮には、想像することしかできなかった。




