第六章「届かない声」
雨宮町に戻ると、蓮見が駅前で待っていた。その顔色は、亮が発つ前よりも、さらに悪くなっているように見えた。
「深沢さん、お疲れのところすみません」
「いえ。メッセージにあった、境界の広がりについての話を」
蓮見は頷き、車を出しながら説明を始めた。
「望月さんの家……あの一帯が、完全に境界の内側に入りました。それに、境界の拡大の速度が、明らかに上がっています」
「どれくらいですか?」
「これまでは、数日単位でじわじわと広がっていました。ですが、深沢さんが実家に戻られていた、あの一日で……急に、旧市街の三分の一近くまで、広がったんです」
亮は窓の外を見た。旧市街に近づくにつれて、シャッターを下ろした店や、避難していった住民の空き家が目立つようになっていた。
「住民の避難は、進んでいますか?」
「町の判断で、境界から一定距離内の住民には、強制避難を勧告しました。ですが……」
「ですが?」
「動こうとしない人も、まだいます。長年住み慣れた土地を、簡単には離れられない、と」
亮は望月早苗の姿を思い出した。認知症を患いながらも、住み慣れた家を離れることを拒んだ、あの女性。
「霧島さんは?」
「資料館にこもって、過去の記録をさらに調べています。深沢さんが戻られたら、会いたいと」
資料館に着くと、霧島は机の上に、古い文書を何冊も広げていた。
「深沢さん、お帰りなさい。休めましたか?」
「……あまり、休めた気はしません」
霧島は亮の顔を見て、小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。
「新しく分かったことがあります」霧島は一冊の古文書を指さした。「百年前の記録に、こういう記述がありました」
亮はその文書を覗き込んだ。達筆すぎて、亮にはほとんど読めない。
「要約すると……無音の拡大が急激に速まるのは、決まって、境界の中で『声を求める者』が増えたときだ、とあります」
「声を求める者?」
「助けを呼んでも、誰にも届かない状況に置かれた人間、という意味だと思います。望月さんのように」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
「つまり、望月さんが自宅で助けを求めても誰にも届かなかったこと自体が、境界を広げる原因になった、ということですか?」
「その可能性があります」霧島は文書を閉じた。「そして……深沢さん」
「なんでしょう」
「もう一つ、気になることが。深沢さんが持ち帰ったという、あの録音データのことです」
亮の心臓が、跳ねた。蓮見にも話していなかったはずだった。
「……なぜ、それを?」
「蓮見さんから伺いました。深沢さんが、ひどく思い詰めた顔をされていた、と」
亮は蓮見の方を見た。蓮見は気まずそうに視線を逸らした。
「すみません。深沢さんの様子が心配で、霧島さんに相談してしまいました」
亮は小さくため息をついた。だが、責める気にはなれなかった。二人とも、亮を心配してくれているだけだ。
「……分かりました。データを、お見せします」
宿の一室で、亮はノートパソコンを開き、あの日の録音データを再生した。霧島と蓮見が、固唾を呑んで画面を見つめている。
波形が動き始める。亮と霧島の足音。荒い息づかい。そして……
問題の部分に差し掛かったとき、亮は音量を上げた。
ノイズの向こうに、微かな足音。そして、掠れた声。
「……りょう」
蓮見が息を呑んだ。
「今の……深沢さんの、名前ですよね?」
「はい」
霧島は、何度もその部分を聞き返させてほしいと頼んだ。亮は同じ箇所を、三度、四度と再生した。
「……この声」霧島が、ぽつりと言った。「男の声にも、女の声にも聞こえます。年齢も、性別も、判別できません」
「霧島さんには、これが何か、心当たりが?」
霧島はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「記録には、こうあります。『境界の内なるものは、外なるものの名を呼び、招き寄せようとする』」
「招き寄せる?」
「向こう側に、引きずり込もうとする、という意味だと思います。ただ……」
霧島は言葉を切り、亮の目を見た。
「これまでの記録では、名前を呼ばれた人間は、皆、最終的に境界の中で消えています」
会議室のような重い沈黙が、狭い宿の部屋に降りた。
「……つまり、私も」亮は掠れた声で言った。「いずれ、あちらに呼ばれる、ということですか?」
「まだ、分かりません」霧島は慎重に言葉を選んだ。「ただ、警戒はした方がいいと思います」
その日の夕方、亮は一人で、境界の様子を確認しに向かった。霧島にも蓮見にも、少しの間、一人にしてほしいと頼んだ。
境界の手前に立ち、亮はしばらく、旧市街の静かな路地を見つめていた。
……もし、自分が呼ばれているのだとしたら。
……何のために、呼ばれているのだろう。
亮はポケットからスマートフォンを取り出し、結衣に電話をかけようとした。だが、電波の表示が、なぜか一本も立っていない。
「……電波が」
亮は場所を変えながら、何度もスマートフォンを確認した。だが、どこに移動しても、電波は一向に回復しなかった。
……境界が、近くにあるからか。
亮は諦めて、スマートフォンをしまった。かわりに、道を歩いている老人に、声をかけることにした。
「すみません、この近くの郵便局がどこにあるか、教えていただけますか?」
老人は、亮の方を見なかった。そのまま、通り過ぎていく。
「……すみません」
亮はもう一度、少し大きな声で呼びかけた。だが、老人は振り返らない。まるで、亮の声が、聞こえていないかのように。
亮は困惑しながら、別の通行人に声をかけた。買い物帰りらしい主婦だった。
「あの、すみません」
主婦もまた、亮に気づかない様子で、そのまま歩き去っていった。
亮は自分の喉に、手を当てた。声は、確かに出している。喉の震えも、感じる。だが、誰にも、届いていない。
……まさか。
亮は近くの自動販売機に駆け寄り、硬貨を投入した。ボタンを押すと、缶が落ちてくる音がした。
……音は、聞こえる。
亮は自分の手を叩いてみた。パン、という音が、はっきりと耳に届いた。
……自分の耳は、正常に機能している。
……なのに、自分の声だけが、誰にも届いていない。
亮は震える手で、もう一度スマートフォンを取り出した。電波は、依然として立っていない。
「……蓮見さん!」
亮は声を張り上げた。だが、その声は、自分の耳には届いても、周囲の誰にも反応させることはなかった。
道行く人々が、次々と亮の横を通り過ぎていく。誰も、亮の方を見ない。誰も、亮の声に反応しない。
まるで、亮だけが、この世界から切り離されてしまったかのようだった。
……これが。
……霧島さんの言っていた、『声を失った者』ということなのか。
亮は、境界線の方を振り返った。旧市街の路地は、変わらぬ静けさで、そこにあった。
だが、亮にはもう、境界の内側と外側の区別が、分からなくなり始めていた。
自分は今、境界の外にいるはずだ。なのに、誰にも声が届かない。それなら……
……自分は、もう、境界の中に、足を踏み入れているのではないか。
亮は自分の周囲を見回した。人々は普通に歩き、話し、笑っている。ごく普通の、夕暮れの町の光景。
だが、その中で、亮の存在だけが、誰にも認識されていない。
亮は駆け出した。宿に向かって、霧島と蓮見がいるはずの場所へ。
宿の扉を開けると、霧島と蓮見が、心配そうな顔で振り返った。
「深沢さん! 大丈夫ですか?顔色が」
蓮見の声が、はっきりと、亮の耳に届いた。
亮は、その場に崩れ落ちそうになるのを、かろうじてこらえた。
「……僕のことが、分かるんですか? 見えてるんですか?」
「どうしたんですか、一体?」
亮は震える声で、先ほどの出来事を説明した。霧島の表情が、みるみる強張っていく。
「深沢さん。それは……」
「私は、誰にも届かない存在に、なりかけていたということですか?」
霧島は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「分かりません。ですが……深沢さんが、ここに戻ってきて、私たちの声が聞こえて、私たちにも深沢さんの声が届いている。今は、大丈夫なはずです」
亮は、自分の手を見つめた。まだ、震えが止まらない。
……あの時、自分は、何だったのだろう。
……境界の外にいながら、境界の中にいる人間と、同じ状態になっていた。
亮の脳裏に、蓮見から聞いた、望月徹の玄関に並んでいたという履き物の話が、蘇った。
……望月さんも、同じだったのかもしれない。
……境界の中にいたから消えたのではなく、誰にも声が届かなくなったから、消えたのだとしたら。
亮はその考えを、霧島に伝えた。霧島はしばらく黙り込んだあと、静かに言った。
「深沢さん。もう一つ、確認したいことがあります」
「なんでしょう」
「境界というのは、本当に、地図の上に描かれた、あの円のことだけを指すのでしょうか?」
亮は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「霧島さん、それは、どういう……」
「もしかしたら、境界は……場所の問題ではなく、人間の内側にも、同じように存在しているのかもしれません」
窓の外は、いつの間にか、すっかり日が暮れていた。旧市街の方角から、今夜も、変わらぬ静けさが漂ってくる。
だが亮にはもう、その静けさが、外からのものなのか、それとも、既に自分自身の内側から滲み出しているものなのか、判別がつかなくなっていた。




