第五章「娘」
「深沢さん、少し休んでください」
霧島にそう言われたのは、望月徹の失踪から三日が経った日のことだった。
「町の方は、当面私たちで見ておきます。深沢さんは、根を詰めすぎています」
「ですが……」
「三十七分、境界の中にいた人間です。深沢さん自身の身体のことも、考えてください」
亮は自分の顔に、疲労の色が濃く出ていることに気づいていなかった。鏡を見る余裕すら、この数日なかった。
「……分かりました。一日だけ、家に戻ります」
亮の自宅は、雨宮町から電車で二時間ほどの距離にある。日帰りは難しいが、一泊すれば、娘の顔を見て、また戻ってくることができる。
「パパ!」
玄関の扉を開けると、結衣が駆け寄ってきた。八歳になったばかりの娘は、亮の腰にしがみつくようにして抱きついてくる。
「ただいま、結衣」
亮は娘の頭を撫でた。柔らかい髪の感触が、手のひらに伝わってくる。
「おかえりなさい、亮」
奥から、亮の母、幸子が顔を出した。結衣を預かってもらっている間、母には随分と負担をかけている。
「母さん、いつもすみません」
「いいのよ。それより、随分やつれたじゃない。ちゃんと食べてるの?」
「……まあ、それなりに」
幸子は亮の顔をじっと見つめ、それ以上は何も言わなかった。だが、その視線には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「パパ、今日は泊まっていくんでしょ?」
結衣が、亮の服の裾を引っ張りながら聞いた。
「うん。明日の朝まではいるよ」
「やった! じゃあ、一緒にお風呂入ろう!」
「分かった、分かった。まずは手を洗っておいで」
結衣は元気よく洗面所へと駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、亮は小さく息を吐いた。
……この子の前でだけは、あの町のことを忘れられる。
夕食の席で、結衣は学校であった出来事を、次々と話して聞かせてくれた。
「あのね、今日の図工の時間に、粘土で動物を作ったの。私はね、うさぎを作ったんだよ」
「うさぎか。上手にできた?」
「うん! でもね、耳がすぐ折れちゃって、三回も作り直したの」
「それは大変だったね」
亮は相槌を打ちながら、結衣の話に耳を傾けた。こうして娘の声を聞いていると、境界の中で感じたあの静寂が、まるで別の世界の出来事のように思えてくる。
「パパは? お仕事、順調?」
結衣にそう聞かれ、亮は一瞬、言葉に詰まった。
「……うん、順調だよ。もう少しで終わりそうだ」
「そうなんだ! 終わったら、また一緒にいられるね」
「そうだね」
亮はそう答えながら、自分の声が、少しだけ上擦っていることに気づいた。結衣は気づいた様子もなく、次の話題へと移っていった。
食事の後、幸子が台所で片付けをしている間、亮は結衣と居間でトランプをして遊んだ。
「パパ、また負けたね!」
「参ったな。結衣は強くなったなあ」
結衣は得意げに笑った。その笑顔を見ながら、亮はふと、望月徹の玄関に並んでいた履き物のことを思い出した。
……もし、自分があのまま、境界の奥で消えていたら。
……この笑顔を、二度と見られなかったかもしれない。
亮は慌てて、その考えを振り払った。
「パパ、どうしたの? 順番だよ」
「あ、ああ、ごめん」
亮はトランプを引き、結衣に手札を見られないよう、意識を戻した。
結衣を寝かしつけたのは、夜の九時過ぎだった。
「パパ、明日も一緒にいる?」
布団に入った結衣が、眠そうな声で聞いた。
「ごめんね。明日の朝には、また仕事に戻らないといけないんだ」
「……そっか」
結衣の声に、隠しきれない寂しさが滲んでいた。亮は娘の頭を、そっと撫でた。
「でも、お仕事が終わったら、ずっと一緒にいられるよ。約束する」
「ほんと?」
「うん、本当だよ」
結衣は少し安心したように微笑み、それから、ふと思い出したように言った。
「あのね、パパ。前に、電話で話してたとき」
「うん?」
「なんか、パパの声、変な感じがしたの」
亮の心臓が、小さく跳ねた。
「変な感じ、って?」
「うまく言えないんだけど……パパが、パパじゃないみたいな。声は同じなのに、なんか……遠くから聞こえてるみたいな感じ」
亮は、努めて平静を装った。
「それは……お仕事で疲れてたからかもね」
「そうかな。……ねえ、パパ」
「なに?」
「お仕事、危なくない? ちゃんと、帰ってきてね」
結衣の目は、もう半分閉じかけていた。だが、その言葉には、子供らしからぬ真剣さが滲んでいた。
「大丈夫。パパは、ちゃんと帰ってくるよ」
亮はそう言って、娘の額に軽く口づけた。結衣は安心したように、目を閉じた。
数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。亮はしばらく、娘の寝顔を見つめていた。
居間に戻ると、幸子がお茶を淹れて待っていた。
「結衣、寝た?」
「はい。すぐに眠りました」
亮は湯呑みを受け取り、一口すすった。温かい茶が、喉を通り過ぎていく感覚が、やけに鮮明に感じられた。
「亮」幸子が、静かに切り出した。「今の仕事、いつ終わるの?」
「……分かりません。思ったより、複雑な現場で」
「危険な仕事なの?」
亮は答えに詰まった。母に、境界のことを正直に話すつもりはなかった。
「いえ、そういうわけでは。ただ、音の解析に、時間がかかっていて」
幸子はしばらく亮の顔を見つめていたが、それ以上は追及しなかった。
「……あなたのお父さんも」幸子は湯呑みを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「昔、似たような顔をしていたことがあったわ」
「父さんが?」
「現場で、事故があった年。誰にも本当のことを話せずに、一人で抱え込んでいた」
亮は、亡くなった父のことを思い出した。
同じダム関連の現場で働いていた父。父もまた、何かを抱えたまま、亮が中学生の頃に病気で亡くなっている。
「あなたは、お父さんに似てる。何でも一人で背負い込もうとするところが」
「……そうでしょうか」
「そうよ。だから、心配なの」
亮は湯呑みの中の茶を見つめた。湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
「母さん。もし……もし、僕に何かあったら、結衣のことを、お願いします」
幸子の表情が、一瞬、強張った。
「何かって、何よ。物騒なこと、言わないで」
「……すみません。ただの、念のためです」
幸子は亮の顔を、じっと見つめた。何かを見透かそうとするような視線だった。
「亮。あなた、本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫です。ただの、仕事上の癖です。万が一のことは、誰でも考えておくものでしょう」
亮はそう言って、無理に笑ってみせた。幸子は納得していない様子だったが、それ以上は何も聞かなかった。
その夜、亮は結衣の部屋の隣、かつて自分の書斎だった部屋で眠ることにした。
布団に入っても、なかなか眠気は訪れなかった。
……境界の中で録音された、あの声。
……りょう、と呼んでいた、あの声。
……誰が、自分の名前を知っていて、あの場所で、自分を呼んだのだろう。
亮はスマートフォンを取り出し、あの夜のデータを、もう一度聞き返そうとした。だが、指が、再生ボタンの上で止まった。
……今、聞いたら。
……この家の中で、あの声を聞いてしまったら。
亮は結局、スマートフォンを閉じ、枕元に置いた。
隣の部屋から、結衣の寝息が、微かに聞こえてくる気がした。壁越しに聞こえるはずのない、小さな寝息。
亮はその音に耳を澄ませながら、少しずつ、眠りに落ちていった。
翌朝、亮が身支度をしていると、結衣が眠そうな目をこすりながら、部屋に入ってきた。
「パパ、もう行っちゃうの?」
「うん、そろそろ。結衣は、まだ寝ててもいいのに」
「見送りたかったの」
結衣はそう言って、亮に抱きついた。亮はその小さな体を、しっかりと抱き返した。
「行ってらっしゃい、パパ。早く帰ってきてね」
「うん。行ってきます」
玄関を出るとき、亮は振り返った。結衣が、幸子と並んで、こちらに手を振っている。
亮も手を振り返し、駅へと向かって歩き出した。
歩きながら、亮はふと、結衣が言っていた言葉を思い返した。
……パパが、パパじゃないみたいな。
……声は同じなのに、遠くから聞こえてるみたいな。
亮は自分の喉に、そっと手を当てた。今、確かに、自分の声は、自分のものだと感じる。だが、あの境界の中で感じた、あの遠さ……あれと、似たような何かが、既に自分の中に忍び込んでいるのだとしたら。
亮は首を振り、その考えを追い払った。今は、町に戻らなければならない。
電車に揺られながら、亮はスマートフォンを取り出し、蓮見からのメッセージを確認した。
「深沢さん、お戻りになる頃、お伝えしたいことがあります。境界の広がりについて、新しい動きがありました」
亮は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
窓の外を、見慣れた景色が流れていく。だが、雨宮町に近づくにつれて、その景色は少しずつ、亮の記憶にある町の姿と、重なっていった。




