第四章「消えた隣人」
境界を越えた瞬間、音が消えた。
前回と同じ感覚だった。だが今回は、一人ではない。亮のすぐ後ろに、霧島の気配がある。振り返ると、霧島の口が動いていた。何かを言っているのだろう。だが、声は届かない。
霧島は自分の喉に手を当て、それから亮の肩を軽く叩いた。「大丈夫か」と聞いているのだと分かった。亮は頷いた。
蓮見は境界の手前で立ち止まったまま、こちらを見つめている。その顔には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
亮は録音機を構え、ゆっくりと路地を進んだ。霧島がすぐ横についてくる。
今日は、前回の酒屋の前からではなく、望月家に近い路地から足を踏み入れていた。霧島が案内したルートで、井戸のある通りとは、別の道筋だった。
石畳を踏む音はしない。だが、足の裏には確かに、石の感触が伝わってくる。感覚はある。音だけが、ない。
……不思議な感じだ。
……身体は生きている。だが、世界の一部が抜け落ちている。
霧島が、前方を指さした。亮はその方向に目をやった。
古い民家の軒先に、人影があった。
女性だった。七十代ほどだろうか。庭先で、洗濯物を取り込もうとしている。ごく普通の、日常の一コマだった。
だが、その動きが、どこかおかしい。
女性は洗濯物を手に取り、それを畳もうとする。だが、途中で手が止まる。数秒間、女性はその場で静止する。それから、また同じ動作を繰り返す。
……ループしている。
亮はぞっとした。まるで、同じ数秒間を、何度も何度も繰り返しているようだった。
霧島が、亮の腕を強く掴んだ。指さす先を見ると、民家の玄関から、初老の男性が出てきた。
男性は庭に向かって、何かを叫んでいるようだった。口の動きから、「早苗」という名前を呼んでいるのが読み取れた。
女性……早苗は、洗濯物を畳む動作を続けている。夫らしき男性の方を、一度も見ない。
男性は早苗に駆け寄り、肩を掴んだ。だが、早苗はその手をすり抜けるように、動作を続ける。まるで、そこに誰もいないかのように。
……夫の手の方が、実体を失っているのか。
……いや、逆だ。
亮は理解した。実体を失っているのは、夫ではない。早苗の「認識」の方が、壊れている。彼女には、夫の存在が、もう届いていない。
男性が振り返った。その視線が、一瞬、亮たちの方に向いた。
亮は思わず声を上げそうになった。だが、声は出ない。
男性の目に、絶望の色が浮かんでいた。何かを言おうとしている。亮はその口の動きを、必死に読み取ろうとした。
「……たすけて」
そう読めた気がした。
亮は前に進もうとした。だが、霧島がその腕を強く引いた。首を振っている。
……近づくな、ということか。
亮は迷った。だが、霧島の表情は真剣だった。何か、彼女には見えているものがあるのかもしれない。
亮は仕方なく、その場に留まった。
早苗は、変わらず洗濯物を畳み続けている。同じ動作を、何度も、何度も。夫はその横で、声にならない声で、妻の名を呼び続けている。
やがて、早苗の輪郭が、わずかに揺らいだ。
亮は目を凝らした。見間違いかと思った。だが、確かに、早苗の姿が、周囲の景色に溶けていくように、薄くなっていく。
夫が、早苗に向かって手を伸ばした。だが、その手は空を掴む。早苗の姿は、洗濯物だけを残して、完全に消えた。
夫は、その場に崩れ落ちた。声にならない絶叫を上げているのが、口の動きだけで分かった。
亮は、自分の心臓が激しく脈打っているのを感じた。だが、その音すら、聞こえない。
霧島が、亮の袖を引いた。戻ろう、というジェスチャーだった。亮は頷き、二人は来た道を戻り始めた。
背後で、夫がふらふらと立ち上がるのが見えた。何かに引き寄せられるように、彼もまた、覚束ない足取りで、亮たちの後を追うように歩き出していた。
境界を出た瞬間、世界に音が戻ってきた。
蝉の声。風の音。そして……男性の絶叫。
「早苗! 早苗ぁあああ!」
振り返ると、男性はいつの間にか、亮たちのすぐ後ろ……境界のすぐ内側まで、ふらつきながらついてきていた。そこで力尽きたように、地面に手をついて泣き崩れている。
「……あの人は」亮は掠れた声で言った。「境界の中にいるのに、声が聞こえる」
「音は、ちゃんとそこにあるからです」霧島が答えた。「録音機が、境界の中でも普通に音を拾っていたのと、同じですよね。境界の中でも、音そのものは、ずっと存在している。聞こえなくなるのは、境界の中にいる人間の耳だけです。私たちは、もう外に出ている」
蓮見が、二人の元へ駆け寄ってきた。
「今の……見えましたか? 望月さんの奥さんが……」
「望月、というのが、あの方の名前ですか?」
「はい。望月早苗さん。ご主人と、二人暮らしで。境界の近くに住んでいて、何度も避難を勧めていたんですが……」
蓮見の声が震えていた。
「なぜ、避難しなかったんですか?」
「早苗さんが、認知症を患っていて……住み慣れた家を離れたがらなかったそうです。ご主人も、無理に引き離すのは可哀想だと」
亮は、先ほど見た光景を思い出した。同じ動作を繰り返していた早苗。まるで、時間の中に閉じ込められているようだった。
……あれは、無音現象のせいなのか。それとも、彼女がもともと抱えていた病のせいなのか。
……境界は、その人が既に持っていた「何か」を、増幅させているだけなのかもしれない。
亮はその考えに、ぞっとした。
望月家が見える境界の手前には、既に近隣の住民たちが集まり始めていた。誰も境界の内側には入ろうとせず、遠巻きに、家の方を見つめている。
「深沢さん」霧島が、静かな声で言った。「今、見たことを、覚えていますか?」
「……もちろんです。忘れられるはずがない」
「いえ、そういう意味ではなく」霧島は亮の目をまっすぐに見た。「望月さんの奥さんの、顔を。はっきりと、思い出せますか?」
亮は言われた通り、早苗の顔を思い出そうとした。
……七十代くらいの、女性。白髪交じりの髪。着ていた服は、確か、薄い水色のカーディガンで……
顔が、思い出せない。
「……輪郭が、ぼやけています。おかしい、さっき見たばかりなのに」
霧島は、小さく頷いた。
「境界の中で見たものは、時間が経つほど、記憶から薄れていきます。私も、何度か経験しました。まるで、あちら側で見たものを、こちら側に持ち帰らせないように、何かが働いているような」
亮は、蓮見の方を見た。
「蓮見さん。行方不明になった七人の、写真は残っていますか?」
「もちろん、あります」
「見せてもらえますか。今すぐに」
蓮見は戸惑いながらも、スマートフォンを取り出し、ファイルを開いた。
だが、次の瞬間、蓮見の顔色が変わった。
「……これは」
「どうしました?」
「写真が……ぼやけています。顔の部分だけ、まるで、ピントが合っていないみたいに」
亮は蓮見のスマートフォンを覗き込んだ。確かに、七人分の顔写真が並んでいるはずのファイルの中で、顔の部分だけが不自然に霞んでいる。輪郭線は残っているのに、目鼻立ちの詳細が、まるで水に滲んだように崩れていた。
「これは……いつから、こうなっていたんですか?」
「分かりません。先週確認したときは、確かに、ちゃんと写っていたはずです」
霧島が、静かに言った。
「消えた人間は、写真の中からも、生きている人間の記憶からも、少しずつ薄れていくのかもしれません」
「でも、百年前のタネさんの記録は……今も、ちゃんと残っていますよね?」
霧島は頷いた。
「はい。ただ、それは……代々の記録係が、消えかけるたびに、書き写してきたからだと思います。私の家では、古い記録を定期的に写本して、新しく書き直す習わしがあります。放っておけば、あの記録も、きっと同じように薄れて、消えていたはずです」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
……それなら。
……もし、自分がいつか消えたら。
……娘の記憶からも、写真からも、少しずつ、消えていくということなのか。
亮は、その想像を振り払うように、頭を振った。今、考えるべきことではない。
その日の夜、亮は宿の部屋で、日中の録音データを確認していた。
境界に入ってから出るまでの、三十分弱の記録。波形を見ながら、亮は自分と霧島の足音、荒い息づかいを一つずつ確認していく。
……ここまでは、問題ない。
早苗が消えた瞬間の時間帯に差し掛かる。波形には、洗濯物を扱う衣擦れのような音、望月の押し殺した嗚咽らしきものが記録されている。亮はヘッドフォンの音量を上げた。
そのとき、微かな違和感に気づいた。
波形の中に、亮と霧島、望月の声とは別に、もう一つ、小さな音の筋が混ざっている。
亮はその部分だけを切り出し、再生速度を落として聞き直した。
……足音だ。
亮のものでも、霧島のものでもない、もう一人分の足音。しかも、それは早苗が消えた場所の方角から、ゆっくりと、亮たちの方に近づいてくるように録音されていた。
亮は音量を最大まで上げた。ノイズの向こうに、かろうじて聞き取れる声があった。
……名前を、呼んでいる?
亮は何度も再生し直した。声はひどく掠れていて、はっきりとは分からない。だが、繰り返し聞くうちに、それが「りょう」という二文字に聞こえてくることに、亮は気づいてしまった。
自分の、名前だった。
亮はヘッドフォンを外し、しばらく動けなかった。
……あの場にいたのは、自分と霧島の二人だけだったはずだ。
……誰が、自分の名前を呼んだ。
窓の外は、今夜も変わらぬ静けさに沈んでいる。だが、そのデータは確かに、機材の中に残っていた。
その夜遅く、亮は宿の部屋で、娘に電話をかけた。
「もしもし、パパ?」
娘の声が聞こえた瞬間、亮はほっと胸を撫で下ろした。
「うん、パパだよ。元気にしてる?」
「元気だよ! あのね、今日ね、学校で……」
娘は、その日にあった出来事を、楽しそうに話し始めた。亮はそれを聞きながら、先ほど見た望月早苗の姿を思い出していた。同じ動作を繰り返し、やがて薄れて消えていった、あの姿を。
「……パパ? 聞いてる?」
娘の声で、亮は我に返った。
「あ、ああ、聞いてるよ。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「もう、ちゃんと聞いてよね」
娘は少し拗ねたような声を出した。亮は笑って謝った。
電話を切ったあと、亮はしばらく、スマートフォンの画面を見つめていた。娘の連絡先に表示された名前と、写真。娘は今日も、境界には近づいていない。安全な場所にいる。
……もし、自分がいつか、境界の奥で消えてしまったら。
……あの行方不明者の写真のように、自分の顔も、誰かのスマートフォンの中で、少しずつ霞んでいくのだろうか。
亮は自分のインカメラを起動し、画面に映る自分の顔を見つめた。今はまだ、はっきりと映っている。目も、鼻も、疲れの滲んだ表情も。
だが、ふと、亮は違和感を覚えた。
画面越しの自分の顔と、鏡で見慣れたはずの自分の顔が……どこか、噛み合わない気がした。
……いや、気のせいだ。
亮は自分にそう言い聞かせて、スマートフォンをテーブルに置いた。
窓の外、旧市街の方角は、今夜も静かな闇に沈んでいる。だが、その静けさが、亮にはもう、ただの静けさには思えなかった。
翌朝、亮は蓮見から一本の電話を受けた。
「深沢さん、大変です。また……また一人、消えました」
「誰が?」
「望月さんです。旦那さんの方の、望月徹さん」
蓮見は一度、言葉を切った。
「私、避難しない望月さんのことが気になって、昨夜も、境界の手前まで様子を見に行っていたんです。呼びかけても、境界の中の望月さんには聞こえないと分かっていたので……懐中電灯で窓を照らして、合図を送りました」
「望月さんが、気づいてくれたんですか?」
「はい。窓越しに私に気づいて、それで、ご自分から境界の際まで出てきてくれたんです。境界の外に出れば、普通に話せますから。そこで少し、立ち話をしました」
亮は、先ほど境界の外で夫の絶叫を聞いたことを思い出した。……確かに、筋は通る。境界の中にいる人間には何も届かない。だが、境界の外まで自分から出てくれば、普通に会話ができる。
「それで、今朝もう一度、同じように懐中電灯で合図を送ってみたら……今度は、いくら待っても、出てきてくれなくて」
「中の様子は、見えたんですか?」
「窓越しに見る限り、中に人の動く気配がなくて。それで、玄関の方に回ってみたんです。ガラス戸越しに、三和土のあたりが見えたんですが……望月さんの履き物が、いつも通りに並んでいました」
蓮見の声が、震えていた。
「靴も、サンダルも、玄関にちゃんと揃っているのが、外からでも見えるんです。それなのに、望月さんの姿だけが、どこにも見当たりません」
亮は受話器を握る手に、力がこもるのを感じた。
「中には、入っていないんですか?」
「怖くて……入れませんでした。窓とガラス戸から、見える範囲を確認しただけです」
「履き物が、外からでも見える場所に揃っていた……つまり、自分の足で、外に出て行ったわけではなさそうだ、ということですね?」
「断定はできません。ただ、状況からすると、そう考えるのが自然だと思います」
「これまでは、境界の奥まで踏み込んだ人間が、戻ってこなかった」亮は考えながら言った。「ですが、今回は状況が違う。望月さんは、境界の中にいたとはいえ、ずっと自宅にいたはずです。それなのに、消えた」
「はい」蓮見の声が、一段と沈んだ。「奥まで踏み込まなくても……消えることが、あるということです」




