表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きこえない  作者: 五稜 司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/22

第三章「霧島冴子」

坂道を上りきったところに、その人物は立っていた。

小柄な女性だった。年齢は四十代半ばだろうか。着古したカーディガンに、大きな鞄を肩から下げている。眼鏡の奥の目が、亮を捉えた瞬間、すっと細くなった。


「あなたが、深沢さん?」

「はい。深沢亮です。今回の調査を……」

霧島冴子(きりしま さえこ)です。町の郷土資料館に勤めています」

霧島は握手を求めるでもなく、じっと亮の顔を見つめた。値踏(ねぶ)みするような視線だった。

「蓮見さんから聞きました。境界の中に、三十七分もいたそうですね?」

「……ご存知でしたか」

「町では、もう噂になっています。三十七分入って戻ってきた人間は、あなたが初めてだと」

霧島の口調は淡々としていた。だがその言葉の裏に、何か別の意図が透けて見える気がした。


「霧島さん。あなたは、今回の現象について、独自に調べていらっしゃると伺いました」

「独自に、というより」霧島は小さく笑った。「私にとっては、これは今に始まったことではないんです」

「……どういうことですか?」

霧島は鞄から古い革表紙のノートを取り出した。表紙は()り切れ、あちこちに付箋が挟まっている。


「私の家系は、代々この町の記録係のようなことをしてきました。神社の宮司(ぐうじ)の家系、というと分かりやすいでしょうか。今の宮司は私の従兄(いとこ)ですが、記録をまとめる役目は、なぜか女系の人間が担うことになっていて」

「記録……無音現象の記録、ということですか」

「そうです。百年前の現象についても、当時の記録が残っています。それに、それより前、二百年前にも」

亮は思わず眉を寄せた。


「二百年前にも、同じことが?」

「ええ。周期的に起きているんです、この町では」

蓮見が横から口を挟んだ。

「霧島さん、その話は……」

「隠す必要がありますか?蓮見さん、深沢さんは、専門家として呼ばれたんでしょう? 正しい情報を与えなければ、調査になりません」

蓮見は気まずそうに黙り込んだ。霧島は構わず続けた。


「深沢さん。この現象には、名前があります。町では古くから『音喰(おとぐ)い』と呼ばれてきました」

「音喰い」

「文字通り、音を喰う……という意味です。この土地には、そういうものがんでいる。あるいは、そういう現象が周期的に起きる、と言うべきかもしれません」

亮は霧島のノートに目をやった。古い文字で、達筆(たっぴつ)だが読みにくい記録がびっしりと書き込まれている。


「霧島さん、失礼ですが……その『音喰い』というのは、具体的にどういう存在なんですか? 生き物なのか、それとも自然現象のようなものなのか」

「分かりません。少なくとも、記録にはそう書かれていません。ただ……」

霧島は言葉を切り、亮の目をまっすぐに見た。

「音を奪われた人間が、やがて『向こう側』の一部になる、という言い伝えがあります」

亮の背筋に、冷たいものが走った。


「向こう側?」

「無音の中心には、もう一枚、境界があると考えられています」

「考えられている……というのは?」

「記録の中に、古い配置図が残っているんです。旧市街の地中に、同心円(どうしんえん)状に石碑(せきひ)が埋められている図面です。神社の結界(けっかい)と同じ考え方で、二重、三重に印を巡らせてある。深沢さんが先日入ったのは、一番外側の石碑より内側まで。


もう一枚の石碑がある場所までは、まだ誰も踏み込んでいません」

「誰も、というのは……確かめようがない、ということですか?」

「そうです。中に入って戻ってきた人間がいない以上、内側で何が起きているのか、証言としては存在しません。ただ、配置図にはそう記されている、というだけの話です。もっと奥に進むと……戻れなくなる、というのも、記録上の言い伝えに過ぎません」

「行方不明になった七人は……」

「おそらく、その奥まで進んでしまったのでしょう」


亮は昨日見た老婆の姿を思い出した。井戸のそばに立ち、口を大きく開けて何かを訴えていた、あの姿。

「霧島さん。私が見た老婆は……タネという女性だと、蓮見さんから伺いました。百年前に最初に消えた人物だと」

霧島の表情が、初めて動いた。驚きと、何か別の感情が入り混じったような顔だった。

「……タネさんを、見たんですか?」

「はい。井戸のそばに」

霧島はノートをめくり、あるページで手を止めた。そこには、亮も見た写真と同じ老婆の姿が、手書きでスケッチされていた。

「深沢さん。タネさんは、私の……先祖に当たる人です」

亮は言葉を失った。


「あなたの、ご先祖?」

「ええ。記録によれば、彼女は当時の記録係でした。私と同じ役目を担っていた」

霧島の声が、わずかに震えた。それまでの淡々とした調子とは違う、初めて見せる人間らしい動揺だった。

「記録によれば、彼女は……境界の異変に最初に気づき、自ら中に入っていったとあります。町を守るために」

「町を、守るため?」

「当時の風習では……無音が広がりすぎたとき、記録係の人間が自ら境界の中心に入り、『向こう側』に留まることで、現象の拡大を一時的に抑える……という言い伝えがあります」


亮はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「つまり……生贄……ということですか?」

霧島は、亮の目を見て、静かに(うなず)いた。

「そう言い換えることもできます。ただ、それが本当に効果があったのかは、記録からは分かりません。ただ、タネさんが境界に入ってから、しばらくの間、現象は収まっていた……そういう記録だけが残っています」


会議室のような重い沈黙が、坂道の途中に降りた。

「霧島さん」亮は慎重に言葉を選んだ。「もしかして、あなたは……」

霧島は亮の言葉を(さえぎ)るように、先に答えた。

「深沢さん。私が何を考えているか、心配しているんですか?」

「……いえ、その」

「安心してください。今すぐ境界に入るつもりはありません。ただ……」

霧島はノートを閉じ、遠くの旧市街を見つめた。

「この現象が、いずれ私に何かを求めてくるだろうということは、覚悟しています。記録係の血を引く者として」

亮はその横顔に、言葉を続けられなかった。


三人は境界線の手前まで歩みを進めた。前回、亮が足を踏み入れた酒屋の前だ。

「霧島さん。あなたも、境界の中に入ったことは?」

「何度か。ただ、深沢さんのように長くはいられません。せいぜい数分です」

「数分でも、何か……見えましたか?」

霧島は少し考えるように目を伏せた。

「音、というより……気配、でしょうか。誰かに見られている、あるいは……誰かに『聞かれている』ような感覚」

「聞かれている?」

「音を奪う存在があるとすれば、それは同時に、こちら側の音を『聞いている』存在でもあるはずです。深沢さんの声も、足音も、心臓の音も……全部、向こうに届いている。ただ、あなたの耳には返ってこないだけで」


亮はぞっとした。境界の中で感じた、あの妙な感覚……自分の音が、誰かに吸い込まれていくような感覚。あれは、比喩ではなく、文字通りの意味だったのかもしれない。

「霧島さん。もう一つ、伺いたいことが」

「なんでしょう」

「もし……音喰いが、人間を『喰う』のだとして。それは、無差別に起きることなんですか? それとも、何か……選ばれる基準のようなものが?」

霧島は亮の顔を、じっと見つめた。


「なぜ、そんなことを聞くんですか?」

「……行方不明になった七人の中に、子供が一人います。他は大人でした。もし基準があるなら、知っておきたい」

霧島はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「記録には……『声を失った者から、順に呑まれる』とあります」

「声を、失った者?」

「言葉通りの意味なのか、比喩なのか……私にも分かりません。ただ、この言葉が、ずっと引っかかっているんです」


亮の脳裏に、ふとある考えがよぎった。

……声を失った者、というのが。

……誰にも届かない声を上げ続けている人間、という意味だとしたら。

亮は自分自身のことを思った。ダムの事故のあの日以来、誰にも本当のことを話せずにいた自分。届かなかった謝罪の言葉。伝えられなかった、同僚への最後の言葉。

……もし、それが『声を失った』ということなら。

亮は自分の手のひらに、じっとりと汗が滲んでいることに気づいた。


「深沢さん? 大丈夫ですか?」

蓮見の声で、亮は我に返った。

「……いえ、大丈夫です。少し、考え込んでしまって」

霧島は亮の顔を、しばらく観察するように見ていた。それから、静かに言った。

「深沢さん。一つ、忠告しておきます」

「なんでしょう」

「境界の中では、自分の中にある『届かなかったもの』ほど、強く引き出される……祖母から、そう聞かされてきました。後悔でも、伝えられなかった言葉でも。記録にも、同じような記述が残っています。だから、深く囚われすぎないように」


亮はその言葉に、何も返せなかった。まるで、霧島に心の中を見透かされたような気がした。

「今日は、私も一緒に境界の中へ入ります。深沢さんの調査に同行する形で」

「危険ではないんですか?」

「危険です。ですが、記録係として、直接この目で確かめておきたいこともあります」

霧島はそう言って、境界線の方へと目を向けた。旧市街の路地が、今日も変わらぬ静けさで、三人を待っていた。

「深沢さん、蓮見さん。準備はいいですか?」

亮は録音機を握り直した。手のひらの汗が、機材の表面をわずかに湿(しめ)らせる。

「……大丈夫です」

「では、行きましょう」

霧島を先頭に、三人は境界線へと足を踏み入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ