第三章「霧島冴子」
坂道を上りきったところに、その人物は立っていた。
小柄な女性だった。年齢は四十代半ばだろうか。着古したカーディガンに、大きな鞄を肩から下げている。眼鏡の奥の目が、亮を捉えた瞬間、すっと細くなった。
「あなたが、深沢さん?」
「はい。深沢亮です。今回の調査を……」
「霧島冴子です。町の郷土資料館に勤めています」
霧島は握手を求めるでもなく、じっと亮の顔を見つめた。値踏みするような視線だった。
「蓮見さんから聞きました。境界の中に、三十七分もいたそうですね?」
「……ご存知でしたか」
「町では、もう噂になっています。三十七分入って戻ってきた人間は、あなたが初めてだと」
霧島の口調は淡々としていた。だがその言葉の裏に、何か別の意図が透けて見える気がした。
「霧島さん。あなたは、今回の現象について、独自に調べていらっしゃると伺いました」
「独自に、というより」霧島は小さく笑った。「私にとっては、これは今に始まったことではないんです」
「……どういうことですか?」
霧島は鞄から古い革表紙のノートを取り出した。表紙は擦り切れ、あちこちに付箋が挟まっている。
「私の家系は、代々この町の記録係のようなことをしてきました。神社の宮司の家系、というと分かりやすいでしょうか。今の宮司は私の従兄ですが、記録をまとめる役目は、なぜか女系の人間が担うことになっていて」
「記録……無音現象の記録、ということですか」
「そうです。百年前の現象についても、当時の記録が残っています。それに、それより前、二百年前にも」
亮は思わず眉を寄せた。
「二百年前にも、同じことが?」
「ええ。周期的に起きているんです、この町では」
蓮見が横から口を挟んだ。
「霧島さん、その話は……」
「隠す必要がありますか?蓮見さん、深沢さんは、専門家として呼ばれたんでしょう? 正しい情報を与えなければ、調査になりません」
蓮見は気まずそうに黙り込んだ。霧島は構わず続けた。
「深沢さん。この現象には、名前があります。町では古くから『音喰い』と呼ばれてきました」
「音喰い」
「文字通り、音を喰う……という意味です。この土地には、そういうものが棲んでいる。あるいは、そういう現象が周期的に起きる、と言うべきかもしれません」
亮は霧島のノートに目をやった。古い文字で、達筆だが読みにくい記録がびっしりと書き込まれている。
「霧島さん、失礼ですが……その『音喰い』というのは、具体的にどういう存在なんですか? 生き物なのか、それとも自然現象のようなものなのか」
「分かりません。少なくとも、記録にはそう書かれていません。ただ……」
霧島は言葉を切り、亮の目をまっすぐに見た。
「音を奪われた人間が、やがて『向こう側』の一部になる、という言い伝えがあります」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
「向こう側?」
「無音の中心には、もう一枚、境界があると考えられています」
「考えられている……というのは?」
「記録の中に、古い配置図が残っているんです。旧市街の地中に、同心円状に石碑が埋められている図面です。神社の結界と同じ考え方で、二重、三重に印を巡らせてある。深沢さんが先日入ったのは、一番外側の石碑より内側まで。
もう一枚の石碑がある場所までは、まだ誰も踏み込んでいません」
「誰も、というのは……確かめようがない、ということですか?」
「そうです。中に入って戻ってきた人間がいない以上、内側で何が起きているのか、証言としては存在しません。ただ、配置図にはそう記されている、というだけの話です。もっと奥に進むと……戻れなくなる、というのも、記録上の言い伝えに過ぎません」
「行方不明になった七人は……」
「おそらく、その奥まで進んでしまったのでしょう」
亮は昨日見た老婆の姿を思い出した。井戸のそばに立ち、口を大きく開けて何かを訴えていた、あの姿。
「霧島さん。私が見た老婆は……タネという女性だと、蓮見さんから伺いました。百年前に最初に消えた人物だと」
霧島の表情が、初めて動いた。驚きと、何か別の感情が入り混じったような顔だった。
「……タネさんを、見たんですか?」
「はい。井戸のそばに」
霧島はノートをめくり、あるページで手を止めた。そこには、亮も見た写真と同じ老婆の姿が、手書きでスケッチされていた。
「深沢さん。タネさんは、私の……先祖に当たる人です」
亮は言葉を失った。
「あなたの、ご先祖?」
「ええ。記録によれば、彼女は当時の記録係でした。私と同じ役目を担っていた」
霧島の声が、わずかに震えた。それまでの淡々とした調子とは違う、初めて見せる人間らしい動揺だった。
「記録によれば、彼女は……境界の異変に最初に気づき、自ら中に入っていったとあります。町を守るために」
「町を、守るため?」
「当時の風習では……無音が広がりすぎたとき、記録係の人間が自ら境界の中心に入り、『向こう側』に留まることで、現象の拡大を一時的に抑える……という言い伝えがあります」
亮はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「つまり……生贄……ということですか?」
霧島は、亮の目を見て、静かに頷いた。
「そう言い換えることもできます。ただ、それが本当に効果があったのかは、記録からは分かりません。ただ、タネさんが境界に入ってから、しばらくの間、現象は収まっていた……そういう記録だけが残っています」
会議室のような重い沈黙が、坂道の途中に降りた。
「霧島さん」亮は慎重に言葉を選んだ。「もしかして、あなたは……」
霧島は亮の言葉を遮るように、先に答えた。
「深沢さん。私が何を考えているか、心配しているんですか?」
「……いえ、その」
「安心してください。今すぐ境界に入るつもりはありません。ただ……」
霧島はノートを閉じ、遠くの旧市街を見つめた。
「この現象が、いずれ私に何かを求めてくるだろうということは、覚悟しています。記録係の血を引く者として」
亮はその横顔に、言葉を続けられなかった。
三人は境界線の手前まで歩みを進めた。前回、亮が足を踏み入れた酒屋の前だ。
「霧島さん。あなたも、境界の中に入ったことは?」
「何度か。ただ、深沢さんのように長くはいられません。せいぜい数分です」
「数分でも、何か……見えましたか?」
霧島は少し考えるように目を伏せた。
「音、というより……気配、でしょうか。誰かに見られている、あるいは……誰かに『聞かれている』ような感覚」
「聞かれている?」
「音を奪う存在があるとすれば、それは同時に、こちら側の音を『聞いている』存在でもあるはずです。深沢さんの声も、足音も、心臓の音も……全部、向こうに届いている。ただ、あなたの耳には返ってこないだけで」
亮はぞっとした。境界の中で感じた、あの妙な感覚……自分の音が、誰かに吸い込まれていくような感覚。あれは、比喩ではなく、文字通りの意味だったのかもしれない。
「霧島さん。もう一つ、伺いたいことが」
「なんでしょう」
「もし……音喰いが、人間を『喰う』のだとして。それは、無差別に起きることなんですか? それとも、何か……選ばれる基準のようなものが?」
霧島は亮の顔を、じっと見つめた。
「なぜ、そんなことを聞くんですか?」
「……行方不明になった七人の中に、子供が一人います。他は大人でした。もし基準があるなら、知っておきたい」
霧島はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「記録には……『声を失った者から、順に呑まれる』とあります」
「声を、失った者?」
「言葉通りの意味なのか、比喩なのか……私にも分かりません。ただ、この言葉が、ずっと引っかかっているんです」
亮の脳裏に、ふとある考えがよぎった。
……声を失った者、というのが。
……誰にも届かない声を上げ続けている人間、という意味だとしたら。
亮は自分自身のことを思った。ダムの事故のあの日以来、誰にも本当のことを話せずにいた自分。届かなかった謝罪の言葉。伝えられなかった、同僚への最後の言葉。
……もし、それが『声を失った』ということなら。
亮は自分の手のひらに、じっとりと汗が滲んでいることに気づいた。
「深沢さん? 大丈夫ですか?」
蓮見の声で、亮は我に返った。
「……いえ、大丈夫です。少し、考え込んでしまって」
霧島は亮の顔を、しばらく観察するように見ていた。それから、静かに言った。
「深沢さん。一つ、忠告しておきます」
「なんでしょう」
「境界の中では、自分の中にある『届かなかったもの』ほど、強く引き出される……祖母から、そう聞かされてきました。後悔でも、伝えられなかった言葉でも。記録にも、同じような記述が残っています。だから、深く囚われすぎないように」
亮はその言葉に、何も返せなかった。まるで、霧島に心の中を見透かされたような気がした。
「今日は、私も一緒に境界の中へ入ります。深沢さんの調査に同行する形で」
「危険ではないんですか?」
「危険です。ですが、記録係として、直接この目で確かめておきたいこともあります」
霧島はそう言って、境界線の方へと目を向けた。旧市街の路地が、今日も変わらぬ静けさで、三人を待っていた。
「深沢さん、蓮見さん。準備はいいですか?」
亮は録音機を握り直した。手のひらの汗が、機材の表面をわずかに湿らせる。
「……大丈夫です」
「では、行きましょう」
霧島を先頭に、三人は境界線へと足を踏み入れた。




