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きこえない  作者: 五稜 司


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2/22

第二章「境界線」

役場に戻った亮は、出された茶に手をつけないまま、机の上の録音機を睨んでいた。

「三十七分、ですか」

蓮見が向かいの椅子に座り、ため息のように(つぶや)いた。

「深沢さんの体感では、一分にも満たなかった」

「はい。あの井戸のそばに老婆が見えて、すぐに後ずさった……それだけの時間だったはずです」

亮は自分の言葉に、自分で違和感を覚えた。三十七分という数字が、どうしても実感と結びつかない。


「蓮見さん。他の調査員も、同じような時間のズレを?」

「……正直に言うと」蓮見は少し言葉を(にご)した。「時間のズレを報告したのは、深沢さんが初めてです」

「初めて?」

「他の者は、境界に入って数分もしないうちに、耐えられなくなって戻ってきます。長くても五分程度でしょうか。三十七分もあの中にいた人間は……」

蓮見はそこで言葉を止めた。亮はその先を促した。

「いない、ということですか」

「いえ」蓮見は首を振った。「三十七分あの中にいて……戻ってきた人間が、いないんです」

会議室の空気が、一段階、重くなった気がした。


「行方不明になった七人のうち、何人かは、最後の目撃情報がはっきりしています。境界に入ってから、三十分以上経っても戻らなかった、と」

亮は喉が渇くのを感じた。目の前の茶に、ようやく手を伸ばす。

「私は……戻ってきましたが」

「ええ。ですから、深沢さんに伺いたいんです。あの中で、何を見て、何を感じたか。できるだけ詳しく」

亮は、井戸のそばに立っていた老婆のことを、もう一度思い出そうとした。だが、記憶の輪郭が、思ったよりも曖昧(あいまい)になっていることに気づいて戸惑う。


「……老婆の顔は、はっきりと覚えていません。ただ、口を大きく開けて、何かを叫んでいるように見えました」

「その老婆は、深沢さんに向かって、何かをしようとしていたように見えましたか」

「分かりません。ただ……」

亮は言葉を切った。うまく言語化できない感覚があった。

「ただ、あの老婆は……何かを訴えているように見えました。怒っているのでも、襲おうとしているのでもなく。もっと……助けを求めているような」

蓮見が、驚いたように顔を上げた。

「助けを?」

「そう感じただけです。確証はありません」


蓮見はしばらく黙り込んだあと、机の引き出しから古い写真を一枚取り出した。セピア色に変色した、白黒の写真だった。

「これを、見ていただけますか」

写真には、着物姿の老婆が写っていた。井戸のそばに立ち、カメラの方を見つめている……はずだった。

だが、顔のあるべき部分だけが、まるで意図的に削り取られたように、白く霞んでいて、輪郭さえ判然としない。

亮は息を呑んだ。

「顔が……分かりません。ただ、この着物と、この井戸には、見覚えがあります」

「深沢さんが見た井戸と、同じ場所ですか」

「はい。あの井戸のそばに、この人と同じ格好の老婆が、立っていました」

蓮見の顔から、血の気が引いていくのが分かった。


「深沢さん。この写真は、大正時代に撮影されたものです。写っているのは、当時、無音の現象が起きたときに、最初に姿を消した人物だと言われています」

「顔が写らないのは……」

「行方不明になった者の写真は、時間が経つと、決まって顔の部分だけが、こうして崩れて分からなくなるんです。理由は、分かりません」

亮は、写真の崩れた顔の部分を、もう一度見つめた。あの日、境界の向こうで見た、あの表情を、この写真から確かめる(すべ)はなかった。それでも、井戸の場所も、着物の柄も、記憶の中の光景と、寸分違わず重なっていた。


「町の古い記録に、名前が残っています。タネという名の女性です。当時の記録によれば、無音の現象が始まってからしばらくして、彼女は井戸のそばで消えた、と」

「大正時代の……」

「百年前に消えた人間が……今も、あそこにいる」

「そう考えるのが、一番自然かもしれません」

亮の脳裏に、ふと嫌な想像が浮かんだ。

……もし、あの老婆が「消えた人間の成れの果て」だとしたら。

……境界の中に長くいた人間は、いずれ、ああなるのではないか。

「蓮見さん。行方不明になった七人について、詳しく教えてください。年齢、性別、境界に入った経緯……分かることは全部」


蓮見は頷いて、別のファイルを取り出した。

七人の名前と経歴を聞きながら、亮は自分の中で何かが引っかかるのを感じていた。

最初に消えたのは、三週間前。町内会長を務めていた七十二歳の男性だった。旧市街の見回り中に境界に入り、そのまま戻らなかった。

二人目は、その五日後。境界の近くに住む主婦。洗濯物を取り込みに出て、消えた。

三人目、四人目と続き、七人目は……つい先週、消えたばかりだった。

「七人目は、どういう状況で?」

「……子供です」蓮見の声が沈んだ。「小学四年生の男の子でした。友人と、肝試しのつもりで境界に入って」

「一緒にいた友人は?」

「無事です。友人が悲鳴を上げて逃げ出したときには、もう、その子の姿はどこにもなかったと」

亮は目を閉じた。娘の顔が、脳裏をよぎる。

……もし、あの子が。

亮は慌ててその想像を打ち消した。今は関係のないことだ。


「蓮見さん。境界線は、今も広がっていると仰いましたね」

「はい。最初は旧市街の中心部、半径五十メートルほどだったものが、今ではその倍以上に……」

「広がる速度は?」

「一定ではありません。ある日は急に広がり、ある日はほとんど変化がない。ただ、確実に広がってはいます」

亮は地図を見つめた。赤いペンで印された円が、じわじわと町を侵食していく様が、脳裏に浮かんだ。

「このままいけば……」

「町全体が、無音になる可能性があります」

蓮見の声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。


その夜、亮は町が用意した宿に泊まることになった。古い旅館の一室。窓の外には、旧市街の明かりがぽつぽつと灯っている。

亮はノートパソコンを開き、今日録音したデータを解析し始めた。波形は、確かに普通の環境音を示している。風の音、鳥の声、遠くの車の走行音。

だが、あの場所にいたとき、亮の耳には何も届かなかった。

……音は、そこに在る。だが、届かない。

亮は自分の専門知識を総動員して考えた。音とは、空気の振動が鼓膜を揺らし、それが神経信号として脳に伝わることで「聞こえる」という現象になる。物理的な振動そのものは存在するのに、その伝達経路のどこかが断たれている……そういう可能性は、ないだろうか。

だが、それだけでは説明がつかないこともある。


亮自身の声や足音、鼓動さえも聞こえなかったこと。あれは、外から届く音の話ではない。自分の内側で生まれる音すら、遮断されていたということだ。

……鼓膜の問題じゃない。もっと根本的な、何かだ。

亮はふと、写真の中の老婆……タネという女性のことを思い出した。彼女は百年前に消えて、今もあの場所にいる。

……消えるというのは、死ぬこととは違うのかもしれない。

……ここではないどこかに、まだ「在る」ということなのかもしれない。

そこまで考えて、亮は自分の腕に鳥肌が立っていることに気づいた。窓の外を見る。旧市街の方角は、今夜も静かに、いつも通りの暗闇に沈んでいる。


スマートフォンが鳴った。娘からのメッセージだった。

「パパ、お仕事いつ終わる? 早く帰ってきてね」

亮は少しだけ(ほお)を緩めて、返信を打った。

「もう少しかかりそうだけど、必ず帰るよ」

送信ボタンを押す。既読がつくのを待つ間、亮はふと、あの井戸のそばで見た老婆の、助けを求めるような表情を思い出した。

……もし、あれが最初は、普通の人間だったとしたら。

……百年かけて、少しずつ、あんな風になっていったのだとしたら。

亮は首を振って、その想像を追い払った。今考えるべきことではない。


翌朝、亮は再び境界線へと向かうことにした。今度は、蓮見だけでなく、町の歴史に詳しい人物にも同行してもらうことになっていた。

「霧島さんという方です」蓮見が教えてくれた。「町の郷土資料館で、長年、雨宮町の歴史を研究されています。今回の現象についても、独自に調べを進めているとのことで」

「心強いです」

「ただ……少し、変わった方なので」

蓮見の言葉の意味を、亮はまだ知らなかった。


宿を出て、旧市街へと続く坂道を歩きながら、亮は昨夜考えたことを反芻(はんすう)していた。

音が届かないのではなく、そこにいる「誰か」に、音が奪われているのだとしたら。

そして、それを百年前から続けている存在が、本当にいるのだとしたら……。

坂道の先に、境界線がある。今日もまた、あの静かな路地が、亮を待っている。

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