第二章「境界線」
役場に戻った亮は、出された茶に手をつけないまま、机の上の録音機を睨んでいた。
「三十七分、ですか」
蓮見が向かいの椅子に座り、ため息のように呟いた。
「深沢さんの体感では、一分にも満たなかった」
「はい。あの井戸のそばに老婆が見えて、すぐに後ずさった……それだけの時間だったはずです」
亮は自分の言葉に、自分で違和感を覚えた。三十七分という数字が、どうしても実感と結びつかない。
「蓮見さん。他の調査員も、同じような時間のズレを?」
「……正直に言うと」蓮見は少し言葉を濁した。「時間のズレを報告したのは、深沢さんが初めてです」
「初めて?」
「他の者は、境界に入って数分もしないうちに、耐えられなくなって戻ってきます。長くても五分程度でしょうか。三十七分もあの中にいた人間は……」
蓮見はそこで言葉を止めた。亮はその先を促した。
「いない、ということですか」
「いえ」蓮見は首を振った。「三十七分あの中にいて……戻ってきた人間が、いないんです」
会議室の空気が、一段階、重くなった気がした。
「行方不明になった七人のうち、何人かは、最後の目撃情報がはっきりしています。境界に入ってから、三十分以上経っても戻らなかった、と」
亮は喉が渇くのを感じた。目の前の茶に、ようやく手を伸ばす。
「私は……戻ってきましたが」
「ええ。ですから、深沢さんに伺いたいんです。あの中で、何を見て、何を感じたか。できるだけ詳しく」
亮は、井戸のそばに立っていた老婆のことを、もう一度思い出そうとした。だが、記憶の輪郭が、思ったよりも曖昧になっていることに気づいて戸惑う。
「……老婆の顔は、はっきりと覚えていません。ただ、口を大きく開けて、何かを叫んでいるように見えました」
「その老婆は、深沢さんに向かって、何かをしようとしていたように見えましたか」
「分かりません。ただ……」
亮は言葉を切った。うまく言語化できない感覚があった。
「ただ、あの老婆は……何かを訴えているように見えました。怒っているのでも、襲おうとしているのでもなく。もっと……助けを求めているような」
蓮見が、驚いたように顔を上げた。
「助けを?」
「そう感じただけです。確証はありません」
蓮見はしばらく黙り込んだあと、机の引き出しから古い写真を一枚取り出した。セピア色に変色した、白黒の写真だった。
「これを、見ていただけますか」
写真には、着物姿の老婆が写っていた。井戸のそばに立ち、カメラの方を見つめている……はずだった。
だが、顔のあるべき部分だけが、まるで意図的に削り取られたように、白く霞んでいて、輪郭さえ判然としない。
亮は息を呑んだ。
「顔が……分かりません。ただ、この着物と、この井戸には、見覚えがあります」
「深沢さんが見た井戸と、同じ場所ですか」
「はい。あの井戸のそばに、この人と同じ格好の老婆が、立っていました」
蓮見の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「深沢さん。この写真は、大正時代に撮影されたものです。写っているのは、当時、無音の現象が起きたときに、最初に姿を消した人物だと言われています」
「顔が写らないのは……」
「行方不明になった者の写真は、時間が経つと、決まって顔の部分だけが、こうして崩れて分からなくなるんです。理由は、分かりません」
亮は、写真の崩れた顔の部分を、もう一度見つめた。あの日、境界の向こうで見た、あの表情を、この写真から確かめる術はなかった。それでも、井戸の場所も、着物の柄も、記憶の中の光景と、寸分違わず重なっていた。
「町の古い記録に、名前が残っています。タネという名の女性です。当時の記録によれば、無音の現象が始まってからしばらくして、彼女は井戸のそばで消えた、と」
「大正時代の……」
「百年前に消えた人間が……今も、あそこにいる」
「そう考えるのが、一番自然かもしれません」
亮の脳裏に、ふと嫌な想像が浮かんだ。
……もし、あの老婆が「消えた人間の成れの果て」だとしたら。
……境界の中に長くいた人間は、いずれ、ああなるのではないか。
「蓮見さん。行方不明になった七人について、詳しく教えてください。年齢、性別、境界に入った経緯……分かることは全部」
蓮見は頷いて、別のファイルを取り出した。
七人の名前と経歴を聞きながら、亮は自分の中で何かが引っかかるのを感じていた。
最初に消えたのは、三週間前。町内会長を務めていた七十二歳の男性だった。旧市街の見回り中に境界に入り、そのまま戻らなかった。
二人目は、その五日後。境界の近くに住む主婦。洗濯物を取り込みに出て、消えた。
三人目、四人目と続き、七人目は……つい先週、消えたばかりだった。
「七人目は、どういう状況で?」
「……子供です」蓮見の声が沈んだ。「小学四年生の男の子でした。友人と、肝試しのつもりで境界に入って」
「一緒にいた友人は?」
「無事です。友人が悲鳴を上げて逃げ出したときには、もう、その子の姿はどこにもなかったと」
亮は目を閉じた。娘の顔が、脳裏をよぎる。
……もし、あの子が。
亮は慌ててその想像を打ち消した。今は関係のないことだ。
「蓮見さん。境界線は、今も広がっていると仰いましたね」
「はい。最初は旧市街の中心部、半径五十メートルほどだったものが、今ではその倍以上に……」
「広がる速度は?」
「一定ではありません。ある日は急に広がり、ある日はほとんど変化がない。ただ、確実に広がってはいます」
亮は地図を見つめた。赤いペンで印された円が、じわじわと町を侵食していく様が、脳裏に浮かんだ。
「このままいけば……」
「町全体が、無音になる可能性があります」
蓮見の声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
その夜、亮は町が用意した宿に泊まることになった。古い旅館の一室。窓の外には、旧市街の明かりがぽつぽつと灯っている。
亮はノートパソコンを開き、今日録音したデータを解析し始めた。波形は、確かに普通の環境音を示している。風の音、鳥の声、遠くの車の走行音。
だが、あの場所にいたとき、亮の耳には何も届かなかった。
……音は、そこに在る。だが、届かない。
亮は自分の専門知識を総動員して考えた。音とは、空気の振動が鼓膜を揺らし、それが神経信号として脳に伝わることで「聞こえる」という現象になる。物理的な振動そのものは存在するのに、その伝達経路のどこかが断たれている……そういう可能性は、ないだろうか。
だが、それだけでは説明がつかないこともある。
亮自身の声や足音、鼓動さえも聞こえなかったこと。あれは、外から届く音の話ではない。自分の内側で生まれる音すら、遮断されていたということだ。
……鼓膜の問題じゃない。もっと根本的な、何かだ。
亮はふと、写真の中の老婆……タネという女性のことを思い出した。彼女は百年前に消えて、今もあの場所にいる。
……消えるというのは、死ぬこととは違うのかもしれない。
……ここではないどこかに、まだ「在る」ということなのかもしれない。
そこまで考えて、亮は自分の腕に鳥肌が立っていることに気づいた。窓の外を見る。旧市街の方角は、今夜も静かに、いつも通りの暗闇に沈んでいる。
スマートフォンが鳴った。娘からのメッセージだった。
「パパ、お仕事いつ終わる? 早く帰ってきてね」
亮は少しだけ頬を緩めて、返信を打った。
「もう少しかかりそうだけど、必ず帰るよ」
送信ボタンを押す。既読がつくのを待つ間、亮はふと、あの井戸のそばで見た老婆の、助けを求めるような表情を思い出した。
……もし、あれが最初は、普通の人間だったとしたら。
……百年かけて、少しずつ、あんな風になっていったのだとしたら。
亮は首を振って、その想像を追い払った。今考えるべきことではない。
翌朝、亮は再び境界線へと向かうことにした。今度は、蓮見だけでなく、町の歴史に詳しい人物にも同行してもらうことになっていた。
「霧島さんという方です」蓮見が教えてくれた。「町の郷土資料館で、長年、雨宮町の歴史を研究されています。今回の現象についても、独自に調べを進めているとのことで」
「心強いです」
「ただ……少し、変わった方なので」
蓮見の言葉の意味を、亮はまだ知らなかった。
宿を出て、旧市街へと続く坂道を歩きながら、亮は昨夜考えたことを反芻していた。
音が届かないのではなく、そこにいる「誰か」に、音が奪われているのだとしたら。
そして、それを百年前から続けている存在が、本当にいるのだとしたら……。
坂道の先に、境界線がある。今日もまた、あの静かな路地が、亮を待っている。




