第一章「依頼」
「深沢さん、こちら側です」
役場の職員がそう言って、亮を狭い会議室に案内した。窓の外には雨宮町の緑がぼんやりと霞んで見える。梅雨明け前の、湿った空気がまとわりつく午後だった。
「わざわざ町外からお呼び立てして、申し訳ありません」
そう言ったのは、町長の隣に座る初老の男だった。名刺には「雨宮町役場 総務課 課長 蓮見」とある。
「いえ。依頼内容が……正直、まだよく分かっていないんです。電話では『音の異常』としか」
亮がそう言うと、蓮見は町長と目を見交わした。それから、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「深沢さんは、音響のご専門でしたね。以前は……ダムの建設現場で、音響の解析をされていたとか」
亮の中で、何かがひやりと冷えた。
「……ええ。今はもう、その仕事はしていません」
「申し訳ありません、詮索するつもりでは。ただ、専門知識をお持ちの方が必要でして」
蓮見はそう言うと、机の上に一枚の地図を広げた。雨宮町の地図だ。旧市街と呼ばれる一角に、赤いペンで丸が付けられている。
「この地域で、三週間ほど前から……音が、聞こえなくなっているんです」
「音が聞こえない?それは、何か施設の故障とか……」
「いいえ」蓮見は首を振った。「風の音も、鳥の声も、人の話し声も。何も聞こえないんです。テレビをつけても、ラジオをつけても。エリアに入った瞬間、すべてが無音になる」
亮は少し笑ってしまいそうになった。それが失礼だと気づいて、慌てて表情を戻す。
「……耳栓をしているような感覚、ということですか?」
「いいえ、それとも違う」町長が初めて口を開いた。「耳栓なら、自分の足音や呼吸は聞こえるでしょう。でも、そこでは何も聞こえない。完全な無音です。まるで……音という概念そのものが、そこだけ消えているような」
会議室に沈黙が落ちた。亮は、蓮見と町長の顔を交互に見た。二人とも、冗談を言っているようには見えない。
「機材で計測はされましたか?」
「もちろんです」蓮見が頷いた。「町の防災課の人間が、録音機を持って行きました。データ上は、風の音も虫の声も、きちんと記録されている。ですが、現場にいる人間の耳には、何も届かない」
亮の中で、技術者としての部分が静かに反応し始めた。機材は音を拾っているのに、人間の耳には届かない。それは単純に言えば……ありえない話だ。
「……その録音データを、聞かせていただけますか」
蓮見が持ってきたノートパソコンを開き、ファイルを再生した。スピーカーから、確かに風の音や、遠くの車の音が聞こえてくる。ごく普通の、町の環境音だ。
「これを、現地で?同じ場所で流したら……?」
「聞こえません」町長が静かに言った。「私も試しました。同じスピーカーで、同じデータを。だが、あのエリアに足を踏み入れた瞬間、何も聞こえなくなる」
亮は黙って画面を見つめた。データとしては音が存在する。だが、知覚としては存在しない。その矛盾が、頭の中でうまく像を結ばない。
「……分かりました。現地を、見せていただけますか」
蓮見と町長は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「助かります。実は……」蓮見が言いかけて、言葉を切った。
「実は、なんです?」
「……この三週間で、七人が、行方が分からなくなっています」
亮は思わず顔を上げた。
「行方不明? 無音現象と、関係が?」
「分かりません。ただ、全員、最後に目撃されたのが、あのエリアの中でした」
会議室の窓の外で、蝉の声が響いていた。当たり前の、夏の音だった。だが亮には、その音が急に、ひどく頼りないものに思えた。
町の旧市街は、想像していたよりも静かな場所だった。
石畳の細い路地。古い木造家屋が軒を連ね、観光地化されないまま時代に取り残されたような一角。案内役の蓮見と共に、亮はゆっくりとその中心部へと歩を進めていた。
「このあたりから、境界線があります」
蓮見が足を止めたのは、古い酒屋の前だった。目印になるようなものは何もない。ただの道の途中だ。
「境界線、というのは……目に見えるものなんですか?」
「いえ、何も。ただ、越えた瞬間に分かります」
亮は蓮見の顔を見た。緊張しているのが分かる。
「先に言っておきますが、私は境界の先までは行きません。ここで待っています」
「……一人で行かせるつもりですか?」
「申し訳ない。何度か試しましたが、その……あまり、気分の良いものではないので」
亮は小さく息を吐いた。技術者としての好奇心と、得体のしれない不安が、腹の底でせめぎ合っている。だが、ここまで来て引き返す理由もない。
「分かりました。何かあれば、すぐ戻ります」
亮は録音機とマイクを構え、一歩を踏み出した。
石畳を踏む、自分の足音。
……それが、次の一歩で、消えた。
亮は思わず足を止めた。振り返ると、蓮見が心配そうにこちらを見ている。何か言っているようだが、唇が動いているだけで、声が届かない。
「……蓮見さん?」
自分の声すら、聞こえなかった。喉が震えているのは分かる。だが、その振動が音として耳に届く前に、何かに吸い込まれてしまうような感覚だった。
亮は録音機のメーターを見た。針は確かに動いている。何かを拾っている。だが、ヘッドフォンをつけても、何も聞こえない。
風が吹いた。木々の葉が揺れているのが見える。だが、葉擦れの音はしない。
亮は自分の心臓に手を当てた。速く打っているのが、指先に伝わってくる。だが、その鼓動の音すら、聞こえない気がした。
……これは、耳の異常じゃない。
亮の中で、技術者としての思考が、必死に働き始めていた。
……音そのものが、ここでは、存在していない。
ふと、視界の端で何かが動いた。
路地の奥、古い井戸のそばに、誰かが立っている。着物のような、古めかしい服装の老婆だった。
亮はそちらに向かって声をかけようとした。だが、やはり声は出ない……出ているのかもしれないが、届かない。
老婆はゆっくりと、亮の方を向いた。
その口が、大きく開かれる。
叫んでいるように見えた。だが、何も聞こえない。ただ、老婆の顔が、驚くほど大きく歪んでいくのだけが見えた。
亮は後ずさった。踵が石畳の縁につまずき、体勢を崩す。
その瞬間……
「深沢さん! 深沢さん、大丈夫ですか!」
蓮見の声が、突然、耳に飛び込んできた。
亮は肩で息をしながら、地面に手をついていた。境界線の外に、後ろ向きに転げ出ていたのだ。
「……老婆が」亮は喘ぎながら言った。「井戸のそばに、老婆が……」
蓮見の顔が、さっと青ざめた。
「老婆は……どんな服装でしたか」
「着物のような、古い……」
蓮見は、亮の肩を掴んだ。その手が、微かに震えている。
「深沢さん。あの井戸のそばには、誰もいません。あそこは、百年以上前に……埋められた井戸です」
亮は言葉を失った。
「それに」蓮見は続けた。「今、あなたが境界の中にいたのは……一分にも満たない時間です。ですが、深沢さん」
「……なんですか」
「あなたの録音機、確認してもらえますか」
亮は震える手で機材を確認した。録音時間の表示を見て、亮は自分の目を疑った。
……三十七分。
体感では、一分にも満たなかったはずの時間が、機材の上では三十七分を記録していた。
亮は、境界線の向こうに広がる静かな路地を、もう一度見つめた。
先ほどまで人の姿があったはずの井戸のそばには、今は何もない。ただ、風もないのに、木々の葉だけが微かに揺れていた。




