第十章「糸口」
波形は、静かに揺れていた。
亮は、画面いっぱいに引き伸ばされた緑色の線を、何度も見返した。
大野や望月の録音に見られた、あの不自然な平坦さ……そこまで明確なものは、見当たらなかった。
だが、ところどころに、わずかな乱れがあった。
亮は、その乱れが現れる箇所を、一つずつ確認していった。
一箇所目は、境界に足を踏み入れた直後。二箇所目は、境界の奥まで進み、時間の感覚が薄れていった、あの数十秒の間。そして三箇所目は……霧島に呼びかけられて、我に返った瞬間と、ぴったり重なっていた。
亮は、思わず、息を止めた。
体感では一分にも満たなかったはずの、あの時間。だが録音機は三十七分を記録していて、しかもその間、自分の呼吸の一部が、確かに乱れていた。
亮は、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
これが何を意味するのか、はっきりとは分からない。大野や望月ほど、明確な異常ではない。だが、確かに、何かが紛れ込んでいる。
……自分は、もう。
その先を考えることが、怖かった。
亮は、震える手で携帯を取り、実家の番号を呼び出した。
呼び出し音が、三回、四回と鳴る。亮は、その一回一回が、ひどく長く感じられた。
「もしもし?」
母の声だった。亮は、詰めていた息を、静かに吐き出した。
「……母さん。結衣は?」
「結衣なら、隣で寝てるわよ。今日は、公園でいっぱい遊んだから、疲れちゃったみたい」
「代わって、もらえる?」
「もう寝ちゃったところなんだけど……起こす?」
「……いや、やっぱりいいや。それより、少しだけ、話せる?」
亮は、母に、結衣の最近の様子を尋ねた。変わったことはないか、電話越しの自分の声について、何か言っていなかったか。
「変わったこと、ねえ……」母は、少し考える様子を見せた。「そういえば、この前、結衣が言ってたんだけど」
「何て?」
「『パパの声、前より少し、遠くから聞こえるようになった気がする』って。前にも、似たようなこと言ってなかった?」
亮の心臓が、大きく跳ねた。
「……前より、って」
「気のせいじゃないの? 子供の感覚だから」
母は、軽い調子でそう言ったが、亮には、その言葉が、軽く受け流せるものではなかった。
「母さん。もし、結衣が何か、変なことを言い出したら……すぐに、教えて欲しい」
「変なことって、何よ。心配しすぎじゃない?」
「……お願い」
亮は、それだけ言って、電話を切った。
しばらく、暗い画面を見つめる。
自分の声が、少しずつ、娘に届かなくなっている。そんな想像が、拭えなかった。
翌朝、亮は霧島に、波形の乱れのことを話した。
霧島は、黙ってその話を聞いていたが、やがて、静かに口を開いた。
「深沢さん。今の話、蓮見さんには、まだ伏せておきましょう」
「……どうしてですか」
「蓮見さんは、望月さんのことで、もう十分に追い詰められています。深沢さんまで同じように蝕まれているかもしれないと知ったら、彼はきっと、深沢さんを調査から外そうとするでしょう。町を預かる立場として、それが正しい判断だとも思います」
「でも、それでは」
「はい。深沢さんが調査を続けられなくなれば、望月さんを助ける手がかりも、失われてしまう。……身勝手な判断だということは、分かっています」
「……そうですね」
「その上で、一つ、提案があります」
「何でしょう」
「タネが、最後に立っていたとされる井戸があります。境界の外れから、少し進んだところにある場所です。以前は、そこから先に、さらに結界の張られた中心部が続いている、とされていました」
「今は、境界が広がった分、井戸までの距離も、以前より深くなっているはずですが……」
「はい。ただ、井戸の先には、まだ中心部が残っています。井戸はあくまで、その手前の地点です」
亮は、霧島の顔を見た。
「望月さんを、力ずくで救い出すことはできません」霧島は、静かに続けた。「ですが、境界そのものの仕組みが分かれば……あるいは、拡大を止める方法や、彼らを解放する方法が、見つかるかもしれません。井戸まで、一度、行ってみませんか?」
「危険ですよね、それは」
「はい。今までで、一番、危険な場所です」
霧島は、まっすぐに、亮を見つめた。
「それでも、深沢さんは、行きますか?」
亮は、少しの間、目を閉じた。
結衣の声。母の言葉。望月の、あの声にならない叫び。そして、自分自身の録音に紛れ込んだ、小さな乱れ。
すべてが、一つの場所へと、亮を押し出していくようだった。
「……行きます」
亮は、静かに、そう答えた。




