第十一章「井戸」
翌日、亮と霧島は、境界の外れで、蓮見と落ち合った。
蓮見は、外れの地点で待つことになっていた。彼の顔には、行かせたくないという思いと、行かせるしかないという諦めが、同時に浮かんでいた。
「深沢さん、霧島さん……十分だけ、待ちます。それを過ぎても戻らなければ、こちらから」
「いいえ」霧島が、静かに遮った。「その時は、追ってこないでください。蓮見さんまで、失うわけにはいきません」
蓮見は、何かを言いかけて、結局、黙って頷いた。
亮と霧島は、頷き合い、境界の奥へと足を踏み入れた。
旧市街の奥は、記憶にあるよりも、ずっと荒れていた。
かつては人が住んでいたはずの家々の庭に、伸び放題の草が絡みつき、瓦の落ちた屋根が、朽ちるに任せて放置されている。音のない世界の中で、その光景は、まるで時間ごと止められた模型のようだった。
歩きながら、亮は、足の裏に伝わる感覚だけを頼りに、地面を確かめていた。自分の足音が聞こえないというのは、何度経験しても、慣れることのない不安だった。
霧島が、スマートフォンを取り出し、画面に文字を打ち込んで、亮に向けた。
『井戸まで、あと五分ほどのはずです』
亮は、頷いた。声を出しても、届かない。境界の中では、それは分かりきったことだった。
石畳の道を抜けると、開けた空き地に出た。
その中央に、古びた井戸があった。
石組みは苔むし、井戸を囲む注連縄は、色褪せてぼろぼろになっている。だが、朽ち果ててはいない。誰かが、代々、手入れを続けてきた痕跡があった。
亮は、井戸を指さし、口の形だけで「ここが」と示した。
霧島は、頷き、再びスマートフォンに文字を打ち込んだ。
『タネが、最後に立っていたとされる場所です』
霧島は、井戸に近づき、その縁に手をついた。しばらくして、また画面を見せる。
『私の家系は、代々、ここに来ては、記録を残してきました。ですが、実際にここまで足を運んだのは、私も、初めてです』
亮は、井戸の中を覗き込もうとして、思わず、身を引いた。
底が、見えなかった。
暗闇が、どこまでも続いているように見えて、覗き込んでいると、まるで自分の方が、引き込まれていくような感覚に襲われる。
霧島が、亮の肩を軽く叩き、首を振った。近づきすぎるな、という意味だと、亮にはすぐに分かった。
亮は、井戸から距離を取り、周囲を見回した。
井戸の向こう、空き地の先に、さらに道が続いていた。
その道の奥に、石碑らしきものが、点々と並んでいるのが見えた。以前、資料館で見た配置図……同心円状に埋められた境界の石碑と、同じ形をしている。
亮は、その先を指さし、霧島に問うような視線を向けた。
霧島は、スマートフォンに、素早く文字を打ち込んだ。
『そこから先が、二重目の境界……言い伝えにある、中心部です』
亮は、目を凝らした。
石碑の並びの奥、視界の端に、何かが、揺れているのが見えた。
亮は、思わず、霧島の腕を掴んだ。指さす先を、視線で示す。
霧島も、亮の視線の先を追った。
遠く、石碑の向こうに、人影のようなものが、佇んでいた。距離があるせいで、その姿は、輪郭がぼやけて見える。
だが、その人影は、時折、身をよじるように、大きく動いていた。まるで、何かに耐えているかのように。
霧島の顔が、強張った。震える指で、画面に文字を打ち込む。
『分かりません。ですが、ここからでは、あれ以上、近づくことはできません』
亮は、霧島の顔を見た。目で、理由を問う。
霧島は、もう一度、画面に文字を重ねた。
『二重目の境界は、外側とは、意味が違います。私も、代々の記録でしか知りませんが……あそこに入った者は、一人として、戻ってきていません。大野さんのような、押し出される形の生還すら、記録にないのです』
亮は、遠くの人影から、目を離せなかった。
その人影が、ふいに、こちらを向いたような気がした。
顔の造作までは分からない。だが、その向きだけは、確かに、亮たちの方へと、変わっていた。
亮の全身に、冷たいものが走った。
霧島が、亮の腕を強く引いた。戻りましょう、と、口の形だけで伝えてくる。
亮は、頷き、遠くの人影を指さしたまま、自分の目にも、あの人影がこちらを見ているように映ったことを、身振りで伝えた。
霧島も、こわばった表情のまま、小さく頷き返した。同じように見えている、ということだった。
霧島は、最後にもう一度、スマートフォンの画面に文字を打ち込み、亮に見せた。
『私の名前は、まだ、呼ばれていません』
そこまで書いて、霧島は、一度、手を止めた。それから、続きを打ち込んだ。
『でも、深沢さんは……もう、一度、呼ばれています。あの録音データの中で』
亮の胸に、冷たいものが広がった。忘れていたわけではない。ただ、その事実を、面と向かって突きつけられるのは、初めてだった。
霧島は、さらに文字を重ねた。
『あちらは、いつでも、こちらに気づくことができる。深沢さんは、もう気づかれている。そう考えた方がいいと思います』
亮は、その文字を、じっと見つめてから、頷いた。
二人は、井戸の前を離れ、来た道を、急ぎ足で戻り始めた。
蓮見の待つ地点まで戻ると、境界を越えた瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に戻ってきた。
「お二人とも、大丈夫ですか!」
「はい……何とか」
霧島は、そう答えながらも、まだ、遠くを見つめるような目をしていた。
「霧島さん。あの人影は、一体……」
「井戸から先は、まだ、私たちの手には負えないということが、分かりました。ですが」
霧島は、亮の方を見た。
「望月さんも、あの奥にいる何かも、確かに、私たちの存在に気づいています。もう、猶予は、あまりないと思います」
旧市街の方角を振り返る。今日も、そこは変わらぬ静けさに沈んでいる。だが、その静けさの奥で、何かが、こちらに視線を向け続けているのだと思うと、亮はもう、後戻りできないところまで、足を踏み入れてしまったのだと感じずにはいられなかった。




