第十二章「血筋」
資料館に戻ると、霧島は、書庫の奥から、さらに古い記録帳を、何冊も運び出してきた。
「タネについて、もう一度、洗い直したいと思います。あの井戸の先で、彼女がどうして、あそこに留まることになったのか」
亮も、その隣に座り、埃をかぶった紙の束を、一枚ずつ捲っていった。
古い記録の多くは、断片的だった。虫食いや、滲んだ墨で読めなくなっている箇所も多い。だが、根気強く読み進めるうちに、いくつかの共通点が、浮かび上がってきた。
「霧島さん、これを」
亮が指した箇所には、こう記されていた。
『タネは、境界の内なるものに、既に名を呼ばれし者なり。ゆえに、記録係の務めとして、自ら奥へと進みたり』
霧島の表情が、強張った。
「……名を呼ばれた者が、記録係として、中心部に入った、ということですか?」
「はい。偶然、彼女が入ったわけじゃない。名を呼ばれていたから、彼女が選ばれた……あるいは、選ぶしかなかった、ということじゃないでしょうか」
霧島は、他の記録帳も、次々と確認していった。
「二百年前、力ずくで人を連れ戻そうとして、消えた男……彼も、記録係の家系の者でした。もしかしたら、彼もまた、既に名を呼ばれていたのかもしれません」
亮は、少し考えてから、口を開いた。
「霧島さん。これは、記録係の血筋だから、名を呼ばれた、ということなんでしょうか。それとも……」
「それとも?」
「記録係という役目上、境界に人一倍近づき、深く触れる機会が多かったから、結果として、呼ばれる確率も高かった……そういうことなのかもしれない、と思ったんです」
霧島は、はっとした顔で、亮を見た。
「僕自身、血筋とは、何の関係もありません。ですが、初めて境界に入った時、体感では一分にも満たなかったのに、実際には三十七分もいた。あれは、これまでの記録の中でも、異例の長さだったはずです」
「……確かに」
「もし、血筋ではなく、境界にどれだけ深く触れたかが条件なんだとしたら。記録係の家系が代々呼ばれてきたのも、彼らが血筋だからじゃなく、務めとして誰よりも境界に近づき続けてきたから……そう考えた方が、僕が呼ばれたことにも、説明がつく気がします」
霧島は、しばらく黙り込んでから、頷いた。
「深沢さんの方が、正しいかもしれません。記録帳を読み返しても、血筋そのものが条件だと明言している箇所は、実はどこにもありません。私たちが、勝手にそう思い込んでいただけかもしれない」
「では、奥で何をすべきかも……」
「そこまでは、記録に残っていません。恐らく、記録係の誰もが、深く踏み込んだ末に、書き終える前に力尽きてしまったのだと思います。私の家系には、断片しか、伝わっていないんです」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
「つまり……何をすればいいのか、誰にも、はっきりとは分からないということですか?」
「はい。それでも、名を呼ばれた者だけが、境界の奥へ踏み込み、何らかの形で、それに働きかけられる……そこまでは、恐らく間違いないと思います」
亮は、記録帳の、タネについての記述を、もう一度、指でなぞった。
「霧島さん。タネは、覚悟を持って、奥へ行ったんですよね。それなら、彼女は、何をすべきか、知っていたんじゃないですか?」
「恐らく、具体的に何をすべきかまでは、彼女も知らなかったと思います」
「でも、覚悟を持って、自分から」
「はい。ただ、それは……『呼ばれた記録係は、務めとして奥へ行くものだ』という、しきたりに従っただけかもしれません。目的の詳細までは分からないまま、それでも先例に倣って、行くべきだと信じて進んだ……そちらの方が、記録の書きぶりにも合っている気がします」
「タネ自身が、奥から書き残したものは?」
霧島は、亮が最初に指した一文を、もう一度、見つめた。
「……これです」
「え?」
「『タネは、境界の内なるものに、既に名を呼ばれし者なり。ゆえに、記録係の務めとして、自ら奥へと進みたり』……これは、後の誰かが書いたものだと思っていましたが、筆跡を見る限り、恐らく、タネ自身の手によるものです」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「タネは、消える前から、記録係として、日常の記録をつけていました。神社に、その頃の帳面が、いくつか残っています。癖のある、独特な『る』の書き方……この一文の筆跡と、見比べてみると、同じ特徴があります」
霧島は、別の帳面を取り出し、亮の前に並べた。確かに、字の崩し方、線の払い方に、共通した癖が見て取れた。
亮は、その一文を、改めて見つめた。震えた筆致で、途中から文字が乱れ、最後の一行は、掠れて、ほとんど読み取れなくなっている。
「彼女は、奥へ進みながら、最後まで、記録係として書き続けていたんです。書ける限界まで。だからこそ、この一文しか、残っていない」
亮の胸に、重いものが広がった。彼女が書き残せたのは、たった一行。それでも、彼女は、記録係としての務めを、最後まで、放棄しなかったのだ。
「彼女自身の、その先の言葉は?」
「ありません。恐らく、指先の感触が失われて、それ以上は、書けなくなったのだと思います」
亮は、その事実の重さを、噛み締めた。何を思い、何を託して、彼女は奥へ消えていったのか。その続きを知る者は、もう誰もいないのだ。
「霧島さん。もう一つ、気になっていることがあります」
「何でしょう?」
「町の記憶が、世代を追うごとに薄れていくなら……あの、井戸の先に続いていた、二重目の境界を示す石碑は、一体、誰が作ったんでしょうか?あれは、明らかに、人の手で、意図的に配置されたものでした」
霧島は、少しの間、考え込んだ。
「恐らく、それは、町の人々ではなく……私の家系が、代々、担ってきたものだと思います」
「霧島さんの、家系が」
「はい。目撃者の記憶や、町全体の危機感は、時間とともに薄れていきます。ですが、記録係の務めは、個人の記憶に頼るものではありません。文書として、代々、書き写され、神社に保管され続けてきました。石碑の配置図も、その一つです」
「では、あの石碑は」
「恐らく、過去の周期の後……あるいは、その前触れの段階で、私の先祖の誰かが、少しでも被害を抑え込むために、築いたものだと思います。町の人々が忘れていく一方で、私たちの家系だけは、忘れないように、書き残し続けてきた」
「何のための結界なんでしょうか?」
「はっきりとは分かりません。ですが……あの石碑の配置は、拡大そのものを止めるためというより、内側と外側を、少しでも切り分けておくための、境界線のように見えます。完全に防ぐことはできない。ただ、時間を稼ぐための、せめてもの備え……そんな気がします」
亮は、遠く、あの人影が佇んでいた場所を思い出した。
「今、その結界は、機能しているんでしょうか?」
「境界の拡大速度を見る限り……恐らく、以前の周期よりも、うまく機能していないのだと思います。なぜなのかは、分かりません」
沈黙が、二人の間に落ちた。
「では、町の人たちが、それでもこの場所に住み続けているのは……?」
「はい。恐らく、同じ理由です。私たちの家系だけは、書き残すことで忘れずにいられますが、町の人々は、周期が去るたびに、危機感そのものを、少しずつ失っていく。だから、次の世代は、ここがどれほど危険な場所だったか、実感として知らないまま、また普通に暮らし始めてしまうんだと思います」
「町ごと、忘れさせられている、ということですか?」
「その可能性は、あると思います」
亮は、背筋が冷えるのを感じた。この現象が、個人の記憶だけでなく、町という共同体の記憶さえも、削り取っていくのだとしたら。
「霧島さん。一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「霧島さんの家系は、ここで何が起きるか、代々知っていたはずです。それなのに、どうして、この土地を離れずに、宮司を続けてきたんでしょうか?」
霧島は、少しの間、黙り込んだ。
「私も、子供の頃、同じことを、祖母に聞いたことがあります」
「何と、答えたんですか?」
「『私たちがいなくなれば、この土地を見張る者が、誰もいなくなる』と、言われました」
霧島は、井戸の方角を、静かに見つめた。
「結界を保ち、記録を書き継ぐ者がいなくなれば、次の周期で、町は今よりずっと無防備なまま、被害を受けることになります。私たちが留まり続けてきたのは、恐らく、それだけの理由です。それに……」
「それに?」
「名を呼ばれるのは、一族の中でも、ごく一部です。タネも、二百年前のあの男も、そして私の知る限りでは、それ以外に、家系から呼ばれた者はいません。だから、離れずにいても、大抵は、何事もなく一生を終えられる……そう思われてきたんだと思います」
「大抵は、というのは?」
「はい。今回、私の家系の者ではない、深沢さんが呼ばれてしまった。これまでの前提が、崩れかけているのかもしれません」
霧島の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「霧島さん。過去に二回、この現象は起きています。それなら、境界の外にいた人たちが、どうやって収束したのかを、記録に残していないんでしょうか?」
霧島は、別の記録帳を、机の上に広げた。
「探してみました。ですが……見つかったのは、これだけです」
古い記述には、こうあった。
『ある日、静けさは、去りぬ。理由を知る者、なし』
「外から見ていた人たちには、いつの間にか静けさが去った、という結果しか、分からなかったんです。何が起きて、なぜ終わったのか……それを知り得る場所には、誰も、生きては辿り着けなかった」
亮は、その一文を、じっと見つめた。
「つまり、タネの記録だけが、唯一の手がかり、ということですね」
「はい。そして、その手がかりすら、こんなにも、断片的なものしかない」
沈黙が、二人の間に落ちた。
亮は、自分の手のひらを、じっと見つめた。
自分は、既に名を呼ばれている。その事実が、これまでは、ただの恐怖の対象でしかなかった。だが今、その事実が、まったく違う意味を持ち始めていた。
「霧島さん。もし、その仮説が正しいなら……僕にも、何かが、できるかもしれない、ということですか?」
霧島は、すぐには答えなかった。
「深沢さん。それは、望月さんを救い出すことでは、ないかもしれません。タネがしたことは、あくまで、境界の拡大を抑えるために、自らそこに留まることでした」
「つまり……望月さんたちを助ける方法ではなく、これ以上、被害を広げないための方法、ということですか?」
「恐らくは。ですが、それすらも、まだ、確信は持てません」
霧島は、記録帳を閉じ、亮の方を見た。
「深沢さんに、これ以上、危険なことをお願いするつもりは、ありません。今の話は、忘れてください」
「忘れられません」
亮は、即座に、そう答えていた。
「僕は、結衣に、何も伝えられないまま、こちら側に取り込まれていくのが、一番怖い。それなら……まだ、何かができるかもしれない今のうちに、動きたいと思います」
霧島は、しばらく、亮の顔を見つめていた。それから、静かに頷いた。
「分かりました。ただし、性急な判断は、しないでください。もう少し、記録を読み込む時間が必要です」
その夜、亮は、久しぶりに、結衣に電話をかけた。
呼び出し音の後、幼い声が聞こえてきた。
「パパ?」
「結衣、元気にしてる?」
「うん! あのね、今日、公園で、おばあちゃんと大きいアリの巣、見つけたの」
結衣の声は、いつも通り、明るかった。亮は、その声を、一つ一つ、耳に刻みつけるように、聞いていた。
「パパの声、今日は、ちゃんと近くから聞こえるよ」
結衣が、ふいに、そう付け加えた。
亮の胸が、締め付けられた。
「そう、良かった」
「うん! 早く帰ってきてね」
「……うん。必ず、帰るから」
電話を切った後、亮は、しばらく、暗い部屋の中で、携帯を握りしめたまま、動けずにいた。
必ず帰る、という自分の言葉が、今はまだ、確かなものだとは、思えなかった。だが、それでも、そう言うしかなかった。
窓の外、旧市街の方角に目をやる。今日も、その静けさは、変わらず、そこに在り続けていた。




