第十三章「刻限」
役場の会議室に呼び出されたのは、二日後の朝だった。
いつもは静かなその部屋に、この日は、見たことのない顔ぶれが並んでいた。町長、防災担当の職員、それに、県から派遣されてきたという、スーツ姿の役人が二人。誰の表情にも、隠しきれない疲労と、焦りが滲んでいた。
蓮見が、机の上に、旧市街の地図を広げた。
赤いマーカーで塗られた領域は、亮が初めて見た時よりも、明らかに広がっていた。かつては旧市街の一角に留まっていたはずのその色が、今は町の中心部近くにまで、じわじわと侵食している。
「この一週間で、拡大速度が、さらに増しています」
蓮見の声は、抑えていても、隠しきれない緊張を帯びていた。
「このままのペースでいくと……あと十日ほどで、この役場のある地区にまで、境界が到達する可能性があります」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
県の役人の一人が、地図を覗き込みながら、低い声で言った。
「原因が特定できない以上、これ以上の対応は、避難以外に、選択肢がありません」
町長が、その言葉を引き取るように、重い声で続けた。
「県とも協議した結果、住民全体の避難を、正式に決定しました。今週末には、町の外れにある避難所へ、全戸、移動していただきます」
亮は、隣に座る霧島の横顔を、そっと窺った。霧島は、じっと、地図の赤い領域を見つめたまま、微動だにしなかった。
「深沢さんと、霧島さんの、これまでの調査には、感謝しています」
町長は、そう続けながらも、その言葉の裏に、明確な意図を滲ませていた。
「ですが、これ以上の個人的な調査は、控えていただきたい。町として、これ以上、犠牲者を出すわけにはいきません」
「望月さんは、まだ、生きています」
亮は、思わず、口を挟んでいた。
会議室の空気が、一瞬、凍りついた。
「深沢さん」蓮見が、宥めるように、亮の肩に手を置いた。「気持ちは、分かります。ですが……」
「彼は、まだ、助けを求めています。それを知りながら、このまま、町ごと引き払っていいんですか?」
町長は、何も答えなかった。ただ、その沈黙が、答えの代わりだった。
会議の後、亮と霧島は、誰もいなくなった廊下で、しばらく、黙って立っていた。
「深沢さん。あの言い方は、まずかったかもしれません」
「分かっています。でも……」
亮は、拳を握りしめた。
「望月さんのことを、まるで、既に片付いた問題のように扱われるのが、我慢できませんでした」
霧島は、小さく頷いた。
「私も、同じ気持ちです。ただ、行政の立場としては……これ以上、私たちが動くことに、責任を持てない、ということなんだと思います」
二人は、そのまま、資料館へと向かった。
道すがら、亮は、避難区域を示す看板が、旧市街との境目に、新しく立てられているのを目にした。まだ、誰も避難していないはずなのに、その看板だけが、既に、この町の終わりを、静かに告げているようだった。
資料館に着くと、霧島は、書庫の棚を、一つ一つ、見回した。
「深沢さん。ここも、あと十日で、避難区域に入ります」
「霧島さんの、ご自宅も、神社も、含まれていますよね?」
霧島は、頷いた。
「祖母の代から、ずっと、ここで暮らしてきました。正直に言うと……この土地を離れるということが、まだ、実感として、湧いていません」
「霧島さんは、本当に、避難するんですか?」
その問いに、霧島は、すぐには答えなかった。書棚の隅、色褪せた木箱に手を触れながら、しばらく、目を伏せていた。
「深沢さん。あと十日で境界がここまで到達するということは……逆に言えば、私たちに残された時間も、あと十日、ということです」
「それは……」
「タネの記録も、井戸の場所も、すべて、避難区域の中にあります。町を離れてしまえば、それ以上、調べることも、確かめることも、できなくなる。今、私がここを離れれば、すべてが、宙に浮いたまま、終わってしまいます」
「霧島さんは、あと十日で、何をするつもりですか?」
霧島は、亮の方を、まっすぐに見た。
「正直に言うと、まだ、はっきりとした計画はありません。ですが……もう一度、記録を洗い直します。タネの一文だけでは、足りない。彼女が、何を伝えようとして、力尽きたのか。その手がかりが、この書庫のどこかに、まだ、埋もれているはずです」
「僕も、手伝います」
「深沢さんには、結衣さんが、います」
霧島の声には、亮を気遣う色があった。
「このまま、私に付き合わせるのは……」
「僕も、同じ気持ちです」
亮は、静かに、だが、はっきりと、そう答えた。
「結衣に会いたい気持ちと、ここで終わらせたくない気持ちが、両方あります。でも、中途半端なまま町を出て、後になって、あの時もっと何かできたはずだと悔やむのは……僕には、耐えられません。それに」
「それに?」
「僕は、既に、名を呼ばれています。もし、この仮説が正しいなら……逃げても、逃げ切れないかもしれない。それなら、まだ、何かできるかもしれない今のうちに、動きたいと思います」
霧島は、しばらく、亮の顔を見つめていたが、やがて、小さく頷いた。
「分かりました。では、今日から、手分けして、記録を洗い直しましょう。時間は、十日しか、ありません」
その夜、亮は、宿の一室で、ノートを開いた。この十日でやるべきことを、一つずつ、書き出していく。
タネの記録の再調査。井戸周辺の、もう一度の踏査。望月徹の状態の確認。そして……。
書きかけたペンが、止まった。
その先に、何を書けばいいのか、亮自身にも、まだ、分からなかった。
携帯が、震えた。母からの着信だった。
「亮、大丈夫なの? ニュースで、あの町の避難のこと、報道されてたけど」
母の声には、明らかな心配が滲んでいた。
「うん、大丈夫。仕事も、あと少しで、区切りがつくと思う」
「本当に? 体調、悪そうな声してるけど」
「……ちょっと、疲れてるだけだよ」
電話の向こうで、母が、小さく息をつく気配がした。
「結衣が、さっきまで、隣にいたんだけどね。『パパ、ちゃんと帰ってくるよね』って、何度も聞いてくるのよ。テレビのニュース、見せなきゃよかったわ」
亮の胸が、締め付けられた。
「……代わって、もらえる?」
「もう、お風呂に入っちゃったところなの。また今度、かけ直してあげて」
「……分かった。ありがとう」
電話を切った後、亮は、しばらく、暗い天井を見上げていた。
必ず帰る、と、これまで何度も、口にしてきた。だが、その言葉が、今はもう、ただの願いでしかないことを、亮自身が、一番よく分かっていた。
窓の外、旧市街の方角に目をやる。今日も、そこは変わらぬ静けさに沈んでいる。だが、その静けさが町に及ぶまでの時間は、もう、十日と数えられるところまで、迫っていた。




