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きこえない  作者: 五稜 司


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第十四章「悪化」

翌日から、亮と霧島は、手分けして調査を進めた。

霧島は資料館に残り、タネや二百年前の男についての記録を、もう一度、隅々まで洗い直す。亮は、望月徹の状態を確認するため、再び境界の奥へと向かうことになった。

一人で行くことに、霧島は難色を示した。

「深沢さん。前回のように、複数人で確認し合った方が」

「霧島さんには、記録の再調査を進めてほしいんです。時間が、あまりありません」

亮は、そう言って、霧島を説得した。


境界に入ると、以前と変わらぬ静寂が、亮を包んだ。

境界の拡大に伴って、望月家までの道のりも、以前より、明らかに長くなっていた。かつては境界の外れからでも見えた望月家の屋根が、今では、旧市街の奥深くまで進まなければ、その姿を確認できない。

……以前、井戸まで行った時よりも、今日の方が、ずっと奥まで来ている。

その事実に、亮は、今更のように気づいた。


望月家までの道のりを、亮は、足の裏の感覚だけを頼りに、慎重に進んだ。荒れた庭、朽ちた屋根……見慣れたはずの光景のはずなのに、以前よりも、色が失われているように見える。

望月家の引き戸をくぐり、廊下の奥に目をやる。

望月徹は、以前と同じ場所に、同じ姿勢で、座り込んでいた。

だが、亮は、その様子に、以前とは違う何かを感じ取った。


顔の見開かれ方が、以前よりも、さらに大きくなっている。口も、限界を超えたかのように、大きく開かれていた。震えも、以前より、激しくなっている。

亮は、震える手で、録音機を構えた。

望月に向けて録音機を掲げながら、亮は、ふと、胸に手を当てた。

……いつもなら、聞こえないはずの心臓の音を、それでも、拍動として、感じ取れているはずだった。指先に伝わる、あの、確かな脈動として。

だが、今は、それすらも、感じ取れなかった。

自分の胸に、確かに手を当てているのに、まるで、そこに何もないかのような、空虚な感触しかない。

……動いている。動いているはずだ。

亮は、必死に、自分にそう言い聞かせた。


その時、視界の端で、望月の顔が、大きく歪んだ。

一瞬……本当に、瞬きの間だけ、亮の脳裏に、何かが流れ込んできた。

暗闇。息が詰まるような、圧迫感。そして、助けを求めても、誰にも届かないという、絶対的な孤立。望月が、そしてタネが、あの顔になる理由が、亮自身の感覚として、直接、流し込まれたようだった。

亮は、思わず、うめき声を上げた。しかし当然のように声にはならなかった。

そして、それに重なるように、頭の中で、はっきりと、声が響いた。

……りょう……。

録音データの中の、掠れた声とは違う。もっと近く、もっと鮮明に、まるで、耳元で囁かれたかのような声だった。

亮は、耳を塞いだ。だが、その声は、耳からではなく、頭の内側から、直接、響いているのだと、すぐに気づいた。

……逃げなければ。


亮は、ふと、結衣の声を思い出そうとした。

……最後に電話で聞いた、あの声。

だが、思い出せなかった。

正確には、思い出せたのは、言葉の内容だけだった。声の高さも、抑揚も、笑った時の響きも……輪郭だけが残っていて、肝心の中身が、すっぽりと、抜け落ちている。

亮は、その場に立ち尽くした。

……そんなはずはない。ついこの間、電話で話したばかりだ。

焦りだけが、感覚のないはずの胸の中で、行き場もなく渦巻いていた。冷や汗が、背中を伝う感触だけは、はっきりとあった。

しばらくして、結衣の声は、ふいに、記憶の中に戻ってきた。いつも通りの、明るい声。だが、それが一度、確かに消えていたという事実だけは、消えなかった。心臓の感触も、いつの間にか、いつも通りに戻っていた。だが、頭の中に響いたあの声だけは、消えないまま、耳の奥に、こびりついていた。


亮は、震える手で、録音を止めた。今、この瞬間の自分の声も、後で確認しなければならない。そう思いながら、亮は、望月家を逃げるように後にした。境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが戻ってくる。

資料館に戻ると、亮は、録音データを、霧島と一緒に確認した。

今回は、偶然ではなく、意図して録音を続けたため、データは二十分近くに及んでいた。とはいえ、今は時間がない。二人は、まず、冒頭の数分だけを、確認することにした。


ノイズの向こうから聞こえてくる声は、以前よりも、さらに切迫していた。

……たすけて。たすけて。たすけて。

同じ言葉が、以前よりも、短い間隔で、繰り返されている。

残りの十数分については、後でゆっくり解析する、ということで、ひとまず、話を進めることにした。

「霧島さん。望月さんの状態は、悪化しています」

霧島の表情が、強張った。

「境界の拡大速度と、関係があるのかもしれません」

「つまり……境界が広がるほど、中にいる者の苦しみも、増していく、ということですか?」

「恐らく。もしそうなら……残された時間は、私たちが思っているより、少ないのかもしれません」

亮は、拳を握りしめた。


「霧島さん。もう一つ、話しておきたいことがあります」

「何でしょう?」

「望月家は、以前、井戸まで行った時より、さらに距離がありました。境界が広がった分、僕は今日、これまでで一番、深いところまで、入ったことになります」

霧島の顔が、緊張に強張った。

「その時、望月さんの前で……一瞬、結衣の声が、思い出せなくなりました」

「思い出せなく?」

「はい。言葉の内容は覚えているのに、声そのものが……高さも、抑揚も、何も、頭に浮かんでこなかった。すぐに、戻りましたが」

霧島の表情が、さらに険しくなった。

「それだけでは、ありません」

「他にも?」

「一瞬、自分の心臓の感触が、分からなくなりました。指を当てているのに、何も感じられない。それと……望月さんの、あの顔になる理由が、一瞬、自分の感覚として、流れ込んできたような気がしました。暗闇と、圧迫感と……誰にも届かないという、孤立感のようなものが」

霧島は、息を呑んだ。

亮は、そこで、言葉に詰まった。


まだ、話していないことが、もう一つあった。だが、それを口にすれば、認めることになってしまう。自分の中で、何かが、確実に、進んでしまっているのだと。

「霧島さん……」

「まだ、何か?」

亮は、拳を握りしめた。喉の奥が、渇いていた。

「……頭の中で、声が聞こえました」

「声、というのは」

「『りょう』と。はっきり、聞こえたんです。録音データの、あの掠れた声とは、違います。……もっと近くて……もっと、……鮮明でした……」

言い終えた瞬間、亮は、自分の言葉の重さに、押し潰されそうになった。

これまでは、録音を通してでしか、確認できなかったものだった。だが今日、それは、機材を介さず、直接、亮自身の頭の中に、届いた。

……これは、進んでいる。

認めたくなかった。認めたくなかったが、認めないわけにはいかなかった。


霧島は、しばらく、何も言わなかった。

「深沢さん。今日は、これ以上、境界に入らないでください」

「でも……」

「深くまで入れば入るほど、危険が増すのは、恐らく間違いありません。井戸へ行く時は、私も、一緒に入ります。一人で、これ以上、深く踏み込ませるわけにはいきません」

亮は、何かを言いかけて、結局、頷いた。

その後、霧島は、亮に、新たに見つけた記録を見せた。


古い帳面の一節に、こうあった。

『拡大の兆し激しきとき、内なるものは、より多くを欲す。呑まれし者の苦しみも、また、それに応じて増す』

「これは……」

「境界そのものが、拡大するために、中にいる者の苦しみを、燃料のように使っているのかもしれません」

亮の背筋に、冷たいものが走った。

「望月さんが苦しめば苦しむほど、境界は、さらに広がる。そういうことですか?」

「断定はできません。ですが、可能性としては、十分にあり得ると思います」

亮は、望月の、あの見開かれた目を思い出した。もし、その仮説が正しいなら、望月の苦しみは、亮たちの調査が長引くほど、増していくということになる。

「霧島さん。時間が、本当に、ありません」

「はい。もう一度、井戸まで、行ってみましょう。今度は、もっと注意深く。何か、見落としているものが、あるはずです」


窓の外、旧市街の方角に目をやる。今日も、その静けさは、変わらず、そこに在り続けていた。だが、その静けさの奥で、望月の苦しみが、確実に、増し続けているのだと思うと、亮は、もう、一刻の猶予(ゆうよ)もないのだと、痛感せずにはいられなかった。

机の上には、まだ聞き終えていない、十数分ぶんの録音データが、静かに残っていた。

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