第十五章「重なる声」
その夜、亮は、資料館の一室で、残りの録音データを、最初から聞き直した。
霧島も、隣で、耳を澄ませている。
最初の数分は、望月の「たすけて」という声が、以前と変わらず、繰り返されているだけだった。だが、十分を過ぎたあたりから、様子が変わり始めた。
望月の声に、別の音が、重なり始めていたのだ。
「これは……」
亮は、波形を見つめた。望月の声とは明らかに違う周波数の音が、いくつも、折り重なるように、記録されている。
一つは、遠くから響く、複数人の悲鳴のようなもの。もう一つは、規則正しい、足音のような音。そして、もう一つ……。
亮は、音量を上げた。
途切れ途切れに、声が聞こえてくる。だが、その声は、今の言葉遣いとは、明らかに違っていた。古めかしい、時代がかった言い回し。まるで、何十年も、何百年も前の人間が話しているかのような。
霧島の顔から、血の気が引いていった。
「深沢さん。これは……」
「霧島さんにも、聞こえますか?」
「はい。この話し方は……少なくとも、今の時代のものではありません」
亮は、背筋が冷えるのを感じた。
「望月さんの録音に、なぜ、こんな音が」
「深沢さん。以前、話したことを、覚えていますか。境界の奥に長く留まるほど、時間の流れが、遅くなっていく、という話」
「はい。大野さんの三週間と、僕の三十七分の……」
「あの仮説が正しいなら、二百年前に消えた男も、そしてタネも……もしかしたら、まだ、死んでいないのかもしれません」
亮は、息を呑んだ。
「時間が、極端に引き延ばされているなら、彼らの中では、まだ、百年分、二百年分の『生』が、終わっていないのかもしれない。境界は、彼らを死なせないまま、閉じ込め続けている……恐らく、拡大のための、燃料として」
亮の脳裏に、以前見た記録の一節が蘇った。
……呑まれし者の苦しみも、また、それに応じて増す。
「では、この声は……」
「今も、まだ、生きたまま、そこにいる者たちの声だと思います。何十年も、何百年も前に囚われたまま、今この瞬間も、苦しみ続けている」
亮は、望月一人の苦しみだと思っていたものが、実は、百年分、二百年分、囚われ続けている者たちの、生きた声の重なりなのかもしれないと気づき、言葉を失った。
「霧島さん。望月さんは、一人じゃない、ということですか?」
「恐らく。境界の奥に行くほど、より古く、より長く囚われた者の声に、近づいていくのだと思います」
その言葉は、亮の中の、結衣への恐怖と、直接、結びついた。
……もし、自分も、あちら側に行けば。
死ぬことすら許されないまま、永遠に、力を吸い取られ続ける。それはつまり、結衣のもとに、二度と帰れないということだ。死んで、悲しませて終わるのでもない。ただ、帰らないまま、いつまでも、待たせ続けることになる。
……結衣に、それを、させたくない。
翌日、亮と霧島は、二人で境界に入り、井戸へと向かった。
歩きながら、霧島が、スマートフォンの画面に文字を打ち込み、亮に見せた。
『タネが、今も井戸にいるか、確認しましょう』
亮は、頷いた。
石畳の道を抜け、空き地に出る。
井戸は、以前と変わらず、そこにあった。だが、その傍らに、タネの姿は、なかった。
霧島が、画面に文字を打ち込む。
『いません』
亮は、周囲を見回した。井戸の向こう、石碑の並びの先……あの、遠くに見えた人影のあたりにも、今日は、何も見当たらない。
二人は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
霧島が、スマートフォンに、文字を打ち込んだ。
『深沢さんが最初にここへ来た時、タネは、井戸のそばにいました。でも、今日はいない。二度目に来た時も、いなかった』
亮は、頷いた。
霧島は、少し考え込んでから、また文字を打ち込んだ。
『さっき、話したことを、思い出してください。タネは、時間の流れが極端に引き延ばされていて、まだ、死んでいないかもしれない、という話』
『はい』
『もし、それが本当なら……百年という歳月は、タネの中では、まだ、ほんの一部分しか、進んでいないことになります。そんな時間感覚の中で、井戸から望月家まで、普通に歩いて移動している……とは、考えにくい気がするんです』
亮は、そのくだりを、繰り返し読んだ。
『それに、以前、私自身が言ったことがあります。境界は、場所の問題ではなく、人間の内側にも、同じように存在しているのかもしれない、と』
『覚えています』
『その二つを、組み合わせると……タネの身体は、案外、どこか一箇所に、留まったままなのかもしれません。井戸の底か、あるいは、もっと奥の、中心部か。今、私たちが見ているものは、身体そのものではなく、意識だけが、必要な場所に、伸びてきているだけなのかもしれない』
亮の背筋に、冷たいものが走った。
『侵入者の気配を感じ取って、そこに現れる……深沢さんが最初にここへ来た時も、そうだったのかもしれません。あるいは、思い入れの深い場所……あの写真が撮られた、この井戸のような場所を、巡っているだけなのかもしれない』
『望月さんが、まだ同じ場所にいるのは』
『取り込まれてから日が浅く、まだ、その術を得ていないからだと思います』
亮は、そこまで読んで、ふと、別の疑問が浮かんだ。
『霧島さん。望月早苗さんは、どうなったんでしょうか』
霧島の手が、止まった。
『タネも、望月徹さんも、存在そのものは、確認できています。姿は、見えている。声も、録音されている。でも、早苗さんだけは……徹さんの目の前で消えてから、一度も、その姿が確認されていません』
『同じように、境界に囚われているなら……なぜ、彼女だけ、影も形も見えないんでしょうか』
霧島は、しばらく、答えを打ち込めずにいた。
やがて、震える指で、文字を綴った。
『分かりません。ですが……これは、確かめなければならない疑問だと思います。もしかしたら、彼女の行方に、この現象の、何か本質的な部分が、隠されているのかもしれません』
亮は、遠く、二重目の境界の方角を見つめた。
そこには、今日も、静かな石碑の列が、続いているだけだった。だが、その静けさの奥に、何かが、こちらを見ているような気配だけは、消えなかった。
二人は、それ以上、長居せず、境界の外へと戻ることにした。
境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に戻ってくる。
「深沢さん」霧島が、ようやく、声に出して言った。「望月さんの録音のことも、タネのことも……もう、私たちだけで抱えられる話ではないかもしれません」
「では」
「もう一度、記録のすべてを、洗い直しましょう。断片でもいい。何か、まだ見つけていない、手がかりがあるはずです」
旧市街の方角に目をやる。今日も、その静けさは、変わらず、そこに在り続けていた。だが、その奥に溜め込まれているものの正体が、少しずつ、その輪郭を見せ始めていた。




