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きこえない  作者: 五稜 司


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第十六章「繰り返し」

翌朝、亮と霧島は、境界の際で、落ち合った。

「霧島さん。今日は、望月さんの様子を見るだけでなく、家の中を、少し調べてみたいと思います」

霧島は、頷いた。

「早苗さんの、私物ですね」

「はい。日記か、何か、手がかりになるものが、あるかもしれません」

二人は、頷き合い、境界の中へと、足を踏み入れた。


望月家に着き、引き戸をくぐると、廊下の奥に、いつもと変わらず、望月徹の姿があった。

見開かれた目、限界まで開かれた口。声にならない叫びを、今日も、上げ続けている。

亮は、その姿に、思わず、駆け寄りそうになった。手を、伸ばしかけた。

霧島が、素早く、亮の腕を掴んだ。首を、強く、横に振る。

亮は、我に返った。触れれば、自分も、同じ側に引きずり込まれる。分かっていたはずなのに、あの姿を見るたびに、身体が、勝手に、動きそうになる。

亮は、深呼吸をしてから、徹に、頭を下げた。今は、まだ、何もしてやれない。その詫びの代わりに。


二人は、徹のかたわらを通り過ぎ、奥の寝室へと、足を進めた。

二人は手分けをして部屋の中を調べ始めた。亮は押し入れを、霧島は箪笥を。

そして霧島が、簞笥(たんす)の引き出しを、そっと開けた。何段目かの引き出しを開けた時、古い大学ノートが、一冊、見つかった。

霧島が、押し入れを探っていた亮の肩を叩き、それを示した。

亮は、頷き、ノートを受け取った。

ページをめくると、認知症の症状が進む中で書かれたと思しき、乱れた文字が並んでいた。日付も、脈絡(みゃくらく)も、ところどころ、途切れている。

だが、ある一節に、亮の目が留まった。日付は、早苗が消える、二週間ほど前のものだった。


『さっき、変なことがあった。洗濯物を畳んでいたら、一瞬、同じ数秒間を、二回繰り返したような気がした。気のせいだと思うけど、最近物忘れが酷くなっているせいなのだろうか。少し、怖い』

亮は、その一節を、霧島に見せた。

霧島の表情が、強張った。


二人は、そのまま、望月家を後にした。境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に戻ってくる。

「霧島さん。この日付は……」

「はい。早苗さんが、完全に消える、二週間ほど前です」

「つまり、これは、前触れだったということですか?」

「恐らく。最初は、ほんの数秒間の、小さな繰り返しだったんだと思います。それが、少しずつ、長く、頻繁になっていって……最後には、あの日、私たちが見たように、同じ数秒間から、抜け出せなくなってしまった」

亮は、背筋が冷えるのを感じた。

「一度、完全に囚われてしまったら、もう、日記を書くことも、できなくなる、ということですね」

「はい。だから、この記述は、まだ、早苗さんに、その余地があった頃の……最後に残せた、記録なんだと思います」

亮は、ふと、あの日の光景を思い出した。


「霧島さん。僕は、最初にあの光景を見た時……早苗さんが同じ動作を繰り返していたのは、認知症の症状の一つだと、思っていました」

「多くの人が、そう思ったと思います。私も、最初は」

「でも、実際は、逆だったんですね。認知症のせいで、繰り返していたんじゃなく……認知症のせいで、自分が同じ時間に囚われていることに、気づけなかった」

霧島は、頷いた。

「はい。もし、早苗さんが、症状を患っていなかったら……あの数秒間の異変に、もっと早く、恐怖を感じて、逃げ出せていたかもしれません」

亮の胸に、重いものが広がった。


「霧島さん。もう一つ、気になっていることがあります。望月家が境界に呑まれてから、当然、音も消えたはずです。いくら症状があったとしても、それだけの変化に、早苗さんは、気づかなかったんでしょうか?」

霧島は、少し、考え込んだ。

「恐らく、早苗さんが避難を拒んでいたのは、境界が望月家に及ぶ、もっと前からのことだったんだと思います。住み慣れた家を離れたくない、という思いは、症状がある方には、特に強く出ることがあります」

「では、後から音が消えた時は」

「そこは、私にも分かりません。ただ……周りの音が消えたことに気づいても、それを『避難すべき異常事態』だと、正しく認識し、行動に移すこと自体が、症状のために、難しかったのかもしれません。恐怖よりも先に、混乱だけが、あったのかもしれない」

亮は、それ以上、何も言えなかった。分かっていても、逃げられない。気づいていても、正しく恐れることさえできない。それもまた、この現象が生み出す、もう一つの恐ろしさなのだと、思い知らされた。


亮は、拳を強く握りしめた。そして、開いたり、握ったりを繰り返した。

「では、早苗さんが、なぜ、あのループから、日記の時のようには、抜け出せなくなってしまったのか……」

亮は、そこまで言って、ふと、言葉を止めた。

「霧島さん。タネも、望月さんも、二百年前の男も……皆、自分の身に、何か異常なことが起きていると、認識していますよね」

「はい。タネは、自ら名を呼ばれたと悟って、奥へ進みました。望月さんは、助けを求め続けている。あの男も、自分が『あちら側』に足を踏み入れたと、自覚していました」

「早苗さんだけが……その認識を、持てなかった」


霧島の目が、大きく見開かれた。

「深沢さん。それは……」

「認識できる者は、留め置かれる。苦しみながらでも、姿や声が、確認され続ける。でも、認識できない者は……そのまま、完全に、消えてしまう。そういうことなんじゃないでしょうか?」

霧島は、しばらく、その言葉を、噛み締めるように、黙っていた。

「……筋が通ります。大野さんも、押し出されるまでの間、何が起きているか、恐らく、どこかで認識していたはずです。だからこそ、押し出されるという形で、こちら側に、繋ぎ止められた」

「でも、早苗さんは、症状のせいで、最後まで、その認識に、辿り着けなかった」

「認識するという行為そのものが、この境界において、この世との、最後の繋ぎ目になっている……そういうことなのかもしれません」


亮は、ふと、以前見た記録の一節を、思い出した。

「霧島さん。前に見た記録に、こうありましたよね。『呑まれし者の苦しみも、また、それに応じて増す』……境界は、囚われた者の苦しみを、燃料にしているのかもしれない、という話」

「はい」

「もし、その苦しみが、自分の状況を認識しているからこそ、生まれるものなのだとしたら……境界は、認識している者からしか、力を吸い取れないのかもしれません」

霧島は、息を呑んだ。

「認識できない者からは、燃料を、得られない。だから……」

「用済みとして、消してしまう。取り込む価値のない者は、そのまま、完全に、消し去られてしまう」

亮の言葉に、霧島は、しばらく、何も答えられずにいた。


「だとしたら、早苗さんは……最後まで、いつも通りの自分でいようとしていただけなのに、それが、皮肉にも、境界にとっては、何の価値もないものだったということに、なります」

亮は、そこで、ふと、引っかかりを覚えた。

「霧島さん。でも、大野さんも、『もう用済みだと、言われたような気がする』と、証言していました。同じ『必要なくなった』はずなのに、大野さんは、外に押し出されて、生きて戻ってきています。早苗さんは、跡形もなく、消えている。この違いは、何なんでしょうか?」

霧島は、しばらく、考え込んだ。

「……恐らく、『認識』は、燃料を生むだけでなく、この世に繋ぎ止めておくための、足がかりそのものでもあるんだと思います」

「足がかり?」

「はい。大野さんは、認識していたからこそ、三週間、境界の中に、繋ぎ止められていました。その間、燃料として、吸い取れるだけ、吸い取られて……空になった時に、その足がかりごと、外に押し出された。だから、身体は、無事に、戻ってきたんです」

亮は、息を呑んだ。


「早苗さんは……」

「認識できなかった早苗さんには、そもそも、繋ぎ止めておくための、足がかりが、なかったんだと思います。だから、吸い取って、空にしてから外に出す、という過程を、経る必要もなく……最初から、境界の中に、留まることさえできないまま、そのまま、すり抜けるように、消えてしまったんじゃないでしょうか?」

「空になったから出されたんじゃなくて……そもそも、掴まれる場所すらなかった、ということですか?」

「はい。同じ『必要なくなった』でも、辿ってきた道筋が、まったく違うんだと思います」


亮は、拳を、握りしめた。早苗が、消えるその瞬間まで、ただ、いつも通りに、洗濯物を畳もうとしていたことを、思うと、胸が、締め付けられた。恐怖に気づくことすらできないまま、それでも、日常を守ろうとしていた、その健気さが。

そして、それは同時に、自分自身にも、突きつけられた事実だった。

……僕は、今、認識している。だから、まだ、こちら側に、繋ぎ止められている。

だが、もし、いつか、認識することすら、できなくなったら。そう考えた瞬間、亮は、これまでのどの恐怖よりも、深い底に、突き落とされたような気がした。


亮は、ふと、別のことが、気になった。

「霧島さん。大野さんは、三週間で、外に押し出されました。でも、最初に消えた七人のうち、他の方々は、まだ、誰も、戻ってきていません」

「確かに、そうですね」

「大野さんが認識していたから留め置かれて、燃料として吸い取られたのなら……他の人たちも、同じように、認識していたはずです。なのに、大野さんだけが、先に、空になったのは、なぜなんでしょうか?」

霧島は、すぐには、答えなかった。

「深沢さん。それは、私にも、まだ、分かりません。ただ……何か、思いついたことがあれば、聞かせてください」

亮は、少し、考えてから、口を開いた。


「大野さんは、町内会長として、見回り中に、たまたま境界に入ってしまっただけです。特別、境界に対して、深い後悔や、未練を、抱えていたわけじゃないと思います」

「つまり……?」

「境界の中では、届かなかったものが、強く引き出される、という話が、ありましたよね。もし、その『届かなかったもの』の深さが、燃料の量に、関係しているのだとしたら」

霧島の目が、大きく見開かれた。

「深く抱え込んだ後悔がある人ほど、燃料が尽きるまでに、時間がかかる……」

「はい。大野さんは、浅かったから、三週間程度で、早く空になった。でも、他の人たちは、まだ、その時に、達していないだけかもしれません」

「望月さんは……」

「奥さんを、今も、探し続けています。あれだけ深い未練があれば、燃料が、そう簡単に、尽きるとは思えません」

霧島は、亮の言葉を、噛み締めるように、繰り返した。


「では、最初に消えた七人の中で、大野さん以外の方々……主婦の方や、あの少年は、どうなるんでしょうか?」

「その二人は、特別、深い後悔を、抱えていたようには、思えません。もし、僕たちの考えが正しいなら……」

「大野さんと、同じくらいの、時間で……」

亮は、頷いた。

「主婦の方が消えたのは、大野さんの五日後です。まだ、二週間ちょっとしか、経っていません。もし、大野さんと同じくらいの時間で空になるのだとしたら……もうすぐ、その主婦の方も」

霧島は、息を呑んだ。

「戻ってくるかもしれない、ということですか?」

「はい。少年は、まだ、消えてから、一週間ほどです。時間が、全然、足りていない。でも、主婦の方は……」

二人は、しばらく、その可能性について、黙り込んだ。


亮は、日記の一節を、もう一度、思い返した。

……気のせいだと思うけど、少し、怖い。

早苗は、あの時、確かに、認識しかけていた。だが、症状が、その先を、許さなかった。

もし、この考えが正しいなら、望月の苦しみは、彼が今も、はっきりと自分の状況を認識し続けているからこそ、続いているということになる。それは、救いなのか、それとも、ただの、残酷な事実に過ぎないのか、亮には、まだ、判断がつかなかった。

窓の外、旧市街の方角に目をやる。残された日数は、あと七日。一つの答えに辿り着いたはずなのに、亮の中の不安は、少しも、軽くならなかった。

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