第十七章「証明」
その報せが届いたのは、翌々日の朝だった。
「深沢さん! 霧島さん!」
蓮見からの電話は、あの日、大野が発見された時と、同じ切迫した声をしていた。
「境界の外れで、また、人が見つかりました。もう、町の者が、保護して、診療所に運んでいます」
亮は、息を呑んだ。
「まさか……」
「はい。町内会の記録にあった、あの主婦の方です」
診療所に駆けつけると、女性は、ベッドの上に、横たわっていた。土埃にまみれた服は、既に着替えさせられ、点滴の管が、腕に繋がれている。大野の時と同じく、目立った外傷は、見当たらないという。
蓮見が、静かに、女性に呼びかけていた。
「……ここは」
女性は、虚ろな目で、天井を見上げていた。
「洗濯物を、干していたはずなのに……」
亮は、大野の時と同じように、慎重に、女性に問いかけた。
「あの……境界の中で、何か、覚えていることは、ありますか。どんな小さなことでも、構いません」
女性は、しばらく、視線を宙に彷徨わせていた。
「……静かだった。それだけは、覚えています。自分の足音も、何も、聞こえなくて」
「それから、何か……声を、かけられたりは」
「分かりません。ただ……何かに、ずっと、見られているような、感覚は、ありました」
「押し出された、というような感覚は」
女性は、少し、考えてから、頷いた。
「はい……そんな感じが、しました。もう、必要ない……そんなふうに、言われた、気がします」
亮は、霧島と、目を見交わした。大野の証言と、ほとんど同じだった。
「境界に入る前、何か、後悔していることや、心残りは、ありましたか?」
女性は、力なく、首を振った。
「……特には。ただの、いつもの、洗濯物でした」
亮と霧島は、顔を見合わせた。
「霧島さん。日数は……」
「大野さんの時と、ほぼ同じです。二週間と、少し」
亮の背筋に、震えが走った。理論が、正しかったという証明が、目の前で、現実になっていた。
診療所からの帰り道、亮と霧島は、しばらく、無言で歩いた。
「霧島さん。僕たちの考えは、間違っていなかったようです」
「はい。深く抱え込んだ未練がない者は、比較的早く、燃料が尽きて、外に出される……その通りに、なりました」
亮は、拳を、握りしめた。
「では、望月さんは」
霧島は、少し、言葉を選ぶように、間を置いた。
「早苗さんへの未練は、恐らく、私たちが計り知れないほど、深いものです。もし、この理論が正しいなら……望月さんが、同じように外に出されるまでには、途方もない時間が、かかるかもしれません」
「三週間や、一ヶ月では、済まないということですか?」
「恐らく。何年、あるいは、何十年という単位に、なるかもしれません」
亮は、目を閉じた。望月徹の、あの見開かれた目を、思い出す。あれだけの苦しみを抱えたまま、何十年も、留め置かれ続けるのだとしたら。
「霧島さん。それでは、望月さんを、待っているだけでは、間に合いません」
「はい」
「境界そのものを、何とかしなければ、彼を、救うことはできない」
その日の午後、亮と霧島は、再び役場に呼ばれた。会議室には、以前より、さらに多くの顔ぶれが並んでいた。県の職員だけでなく、国の研究機関から派遣されたという、聞き慣れない肩書きの人間も、席に着いている。
「深沢さん、霧島さん」蓮見が、硬い表情で、切り出した。「境界の拡大速度について、専門家による試算が出ました」
「試算、というのは」
「このままの速度で拡大が続いた場合……理論上は、都道府県の境界すら、超える可能性がある、と」
会議室に、重い沈黙が広がった。
町一つの問題では、もはや、済まされない。国の機関が動き出したという事実そのものが、事態の深刻さを、何より雄弁に物語っていた。
「深沢さん、霧島さん。お二人がこれまで独自に調査してきた内容を、正式に、提供していただけませんか?」
亮は、霧島と、目を見交わした。
「……分かりました。ですが、今、私たちが持っている情報は、まだ、仮説の域を出ません」
「それでも、構いません。今は、どんな手がかりでも、必要としています」
会議を終え、資料館へ戻る道すがら、亮は、これまでとは違う重さを、肩に感じていた。もう、雨宮町だけの問題ではない。この静けさが、県境を越え、国境さえ越えて広がっていく可能性を、誰かが、本気で計算している。
資料館に戻ると、霧島は、地図を広げた。境界を示す赤い線が、以前よりもさらに、町の中心部に近づいている。
「深沢さん。残された時間は、あと五日です」
「はい」
霧島は、古い帳面を、もう一冊、机の上に置いた。
「深沢さん。タネが記録係として奥へ進むことで、拡大が一時的に抑えられた……という言い伝えは、以前からお伝えしていた通りです。ただ、その先について、もう少し詳しい記述を、見つけました」
「その先、というのは」
「タネが奥へ進んでから、拡大が緩やかになったのは事実のようですが、それだけで、すぐに消えたわけではなかったようです。記録によれば、無音の領域そのものは、その後も、何年か、少しずつ小さくなりながら、残り続けていた、とあります」
亮は、その記述を、じっと見つめた。
「では、最終的に、境界が完全になくなったのは……」
「そこだけは、やはり、書かれていません。『ある日、静けさは、去りぬ』という、あの一文だけです。タネが奥へ進んだことは、拡大を止める、最初のきっかけにはなった。でも、それが、どうやって、完全な終息にまで繋がったのかは、依然として、分からないままです」
亮は、頷いた。完全な答えではない。だが、少なくとも、何もしないよりは、前に進める理由が、そこにはあった。
「タネが、名を呼ばれた記録係として、境界の奥へ進んだように……深沢さんも、同じ立場に、あるのかもしれません」
亮は、静かに顔を上げ霧島の顔を見た。
「それは僕が境界の奥に行けば広がりが止まるかも、という事ですか?」
霧島は、すぐには、答えなかった。
「……分かりません。ただ、可能性としては、ゼロではないと思います」
亮は、静かに、頷いた。
「霧島さん。僕は、決めました。もう一度、井戸の先……二重目の境界に、入ってみようと思います」
霧島の顔が、強張った。
「深沢さん。それは……」
「望月さんを、待っているだけの時間は、もう、ありません。それに」
亮は、自分の胸に、そっと手を当てた。あの日、望月家で感じた、あの空虚な感触を、思い出しながら。
「僕は、もう、名を呼ばれています。境界の内側にも、外側にも、既に、片足を踏み入れているのかもしれません。それなら……このまま、何もせず、じわじわと、呑まれていくのを待つよりは」
「深沢さんの、その考えは……危険すぎます」
「分かっています。それでも」
亮は、霧島の目を、まっすぐに見た。
「結衣に、何も伝えられないまま、少しずつ、自分が自分でなくなっていくのを、ただ待つことだけは、したくありません」
霧島は、しばらく、亮の顔を見つめていたが、やがて、深く、息を吐いた。
「……分かりました。それなら、私も、一緒に行きます」
「霧島さんまで、危険に晒すわけには」
「深沢さんだけを、行かせるわけには、いきません。それに」
霧島は、窓の外、旧市街の方角を見つめた。
「私の家系は、代々、この場所を見守ってきました。ここで、引き下がるわけには、いかないんです」
窓の外に広がる旧市街の静けさに、二人は、しばらく、目を向けていた。残された日数は、あと五日。答えを出す時が、すぐそこまで、迫っていた。




