第十八章「覚悟」
その夜、亮は、宿の一室で、携帯を握りしめたまま、しばらく、動けずにいた。
結衣に、何を伝えればいいのか、言葉が、まとまらなかった。
深呼吸を一つしてから、亮は、実家の番号を呼び出した。
「もしもし?」
母の声だった。
「……母さん。結衣、起きてる?」
「起きてるわよ。代わろうか?」
「うん。お願い」
しばらくして、幼い声が、聞こえてきた。
「パパ?」
「結衣。元気にしてる?」
「うん! 今日ね、幼稚園で、大きい絵、描いたの。今度、見せてあげる」
「……うん。楽しみにしてる」
亮は、その声を、一言一言、耳に刻みつけるように、聞いていた。
「結衣。パパ、もう少しだけ、お仕事に、時間がかかりそうなんだ」
「またぁ? 早く帰ってきてね」
「……うん。……必ず、帰るから」
その言葉が、これまでのどの時よりも、重く、自分の胸に、のしかかった。
「結衣。パパは、結衣のこと、大好きだよ。ずっと、大好きだから」
電話の向こうで、結衣が、少し、照れたように笑う気配がした。
「なにそれ、変なパパ」
「……そうだね。変なパパで、ごめん」
電話を切った後、亮は、しばらく、暗い天井を見上げていた。
伝えられることは、伝えた。それでも、足りない気がした。だが、今の自分に、これ以上、できることはなかった。
亮は、窓の外、旧市街の方角に目をやった。今日で、残り四日。もう、迷っている時間は、なかった。
翌朝、亮が資料館に向かうと、霧島が、青ざめた顔で、待っていた。
「深沢さん。昨夜、国の調査員が、二人、境界に入ったそうです」
「え?」
「独自に、調査を進めていたようです。蓮見さんたちが止めるのも聞かず……今朝になっても、戻っていません」
亮の背筋に、冷たいものが走った。
「僕たちが、これまで積み重ねてきた情報は」
「共有していました。ですが……時間がない、の一点張りで、聞き入れてもらえなかったそうです」
亮は、拳を、握りしめた。
「霧島さん。行きましょう」
「はい」
境界の外れで、蓮見が、二人を待っていた。その顔には、隠しきれない疲労と、後悔が浮かんでいた。
「深沢さん、霧島さん……申し訳ありません。止めきれませんでした」
「蓮見さんのせいでは、ありません」
亮は、静かに、そう言った。
「これから、僕たちが、行きます。あの調査員たちのことも、含めて」
蓮見は、何かを言いかけて、結局、黙って頷いた。
「十分だけ、待ちます。それを過ぎても戻らなければ……」
「いいえ」霧島が、静かに、遮った。「その時は、追ってこないでください。前にも、お伝えした通りです」
亮と霧島は、頷き合い、境界の中へと、足を踏み入れた。
旧市街の奥、以前よりも、さらに広がった静寂の中を、二人は、井戸へと向かって、歩き始めた。残された時間は、あと四日。答えを出す時が、すぐそこまで、迫っていた。




