第十九章「中心」
石畳の道を抜け、空き地に出る。井戸は、以前と変わらず、そこにあった。
霧島が、スマートフォンに、文字を打ち込んだ。
『ここから先です』
亮は、頷いた。
井戸の向こう、石碑の並びの先へと、二人は、足を踏み入れた。
石碑の間を抜けるごとに、周囲の空気が、さらに、重くなっていくのを感じた。音がないことには、もう慣れたはずだった。だが、この先の静けさは、これまでとは、明らかに、質が違っていた。
……空気そのものが、圧し潰されているようだ。
しばらく進むと、道の脇に、見覚えのない、装備品が、落ちているのが目に入った。
霧島が、それを拾い上げ、亮に見せた。布の切れ端と、国の機関の名前が入った、識別証。何の一部かまでは、これだけでは、分からなかった。
二人は、顔を見合わせた。あの調査員たちの、持ち物だろう。
さらに進むと、道の先に、人影が、二つ、見えた。
亮は、息を呑んだ。
全身を覆う、見たことのない防護服姿の男が、二人。ガスマスクのような装置や、計測機器らしきものを、身体のあちこちに、取り付けている。亮たちには、到底、用意できないような、本格的な装備だった。
男たちは、地面に、座り込んでいた。片方は、ヘルメットが外れ、地面に転がっていた。剥き出しになった顔は、大きく見開かれた目で、何かに怯えるように、辺りを見回していた。望月徹と、同じ、あの表情だった。
霧島が、そっと、近づこうとする亮の腕を、掴んだ。首を、横に振る。
近づきすぎれば、自分たちも、同じ場所に、囚われる。分かっていた。だが、目の前で、明らかに恐怖を感じ取っている二人を、見過ごすことの重さが、亮の胸を、締め付けた。
霧島が、スマートフォンに、文字を打ち込んだ。
『今、助ける方法はありません』
亮は、拳を、握りしめた。望月徹の時と、同じ、無力感だった。
さらに奥へ進むと、石碑の列が、途切れ、開けた場所に、出た。
そこは、円形の広場のようになっていた。地面には、同心円状に、古い石が、埋め込まれている。中心には、一際大きな、苔むした岩が、据えられていた。
その岩に、背を向けるようにして、人影が、立っていた。
亮の足音のない足取りに、何かが、反応したかのように、その人影が、ゆっくりと、こちらを、振り向いた。
タネだった。
以前、遠目に見た時よりも、はっきりと、その姿が見える。着物姿の、老いた女性。だが、その表情は、まるで、幾つもの顔が、重なって、絶えず入れ替わっているかのように、一瞬たりとも、同じ形に、留まらなかった。
亮は、その場に、凍りついた。
タネの口が、大きく開かれた。声にならない、何かを、伝えようとしている。
亮は、震える足を、無理やり、前に進めた。あと、数歩。心臓が、痛いほど、脈打っている。
タネに近づくのを止めようと、霧島が、亮の肩に、手をかけた。だが、亮は、その手を、そっと、外した。
「……伝えなければ」
声は、届かない。それでも、亮は、口を、動かしていた。
亮は、タネの、すぐ目の前まで、近づいた。震える手で、携帯を取り出し、画面に、文字を打ち込んで、タネの顔の前に、翳した。
『望月徹さんを、助ける方法は、ありますか』
タネは、答えなかった。ただ、亮の顔を、じっと、見つめ続けている。
亮は、もう一度、文字を打ち込んだ。
『あなたの、言葉が、聞きたいです』
それでも、タネは、答えなかった。
亮は、ゆっくりと、後ずさった。安堵と、落胆が、同時に、胸に広がった。
……通じていないのか。それとも、通じていても、答えようがないのか。
タネは、ゆっくりと、岩に、手を触れた。
その瞬間、亮の頭の中に、直接、何かが、流れ込んできた。
像ではなかった。言葉でもなかった。ただ、途方もない、重みと、長さの感覚。何かを、ずっと、支え続けている、という感覚だけが、伝わってきた。
亮は、その場に、崩れ落ちそうになった。霧島が、慌てて、その身体を、支える。
……あれ?
亮は、支えられながら、一瞬、自分が、何のために、ここまで来たのか、分からなくなった。望月の名前も、結衣の顔も、頭の中から、すっぽりと、抜け落ちていた。
数秒後、記憶は、戻ってきた。だが、その空白があったという事実だけは、消えなかった。今までの、どの空白よりも、長く、深いものだった。喉の奥から、悲鳴が、込み上げそうになる。声にならないと、分かっていても、それを抑えるだけで、精一杯だった。
霧島も、様子が、おかしかった。自分の両手を、何度も、開いたり、閉じたりしている。顔から、みるみる血の気が、引いていく。
亮は、震える指で、画面に、文字を打ち込んだ。
『霧島さんも、何か?』
霧島は、答えなかった。両手を、胸の前で、強く握りしめたまま、目を、見開いている。呼吸が、明らかに、乱れていた。
亮は、もう一度、霧島の肩を、揺すった。霧島は、はっとしたように、震える指で、文字を打ち込んだ。
『手の感触が、一瞬、なくなりました。それに……祖母の顔が、思い出せませんでした。ほんの、数秒だけ』
そこまで書いて、霧島の手が、止まった。目に、みるみる涙が、浮かんでくる。
『深沢さんが、話してくれていたことが……ようやく、分かりました。あれは、こんなにも……』
霧島は、その先を、書けなかった。ただ、震える手で、自分の両手を、何度も、擦り合わせていた。感触が、ちゃんと、戻っているかどうかを、確かめるように。
亮は、霧島の背中に、そっと、手を当てた。何も、言葉にはできなかったが、それでも、そうせずには、いられなかった。
亮は、息を呑んだ。これまで、自分だけに起きていたはずの異変が、霧島にも、起き始めている。自分一人だけの問題ではなくなったのだと、亮は、思い知らされていた。
二人は、そのまま、円形の広場を、後にした。足取りは、来た時よりも、明らかに、重かった。
石碑の並びを抜け、井戸のそばまで戻ると、亮は、荒い息を、整えながら、地面に、座り込んだ。
霧島も、隣に、座り込んだ。両手を、まだ、胸の前で、強く握りしめたままだった。目元には、涙の跡が、乾き切らないまま、残っている。
しばらくの間、二人は、何も、書こうとしなかった。ただ、互いの、荒い息づかいをしてる肩の上下の動きだけが、その場を、満たしていた。
霧島の手が、少しずつ、震えを、収めていく。何度か、深呼吸を、繰り返してから、ようやく、スマートフォンを、取り出した。指先は、まだ、微かに、震えていた。
『……すみません。少し、取り乱しました』
『いえ』
亮は、短く、そう、返した。
霧島は、しばらく、画面を、見つめたまま、動かなかった。それから、ゆっくりと、文字を、打ち込んだ。
『今の、感じましたか』
亮は、頷いた。
『はい。何か、途方もない重さのようなものを』
『タネは、百年間、ずっと、あれを、支え続けているんだと思います。でも……』
亮は、少し、考えてから、文字を続けた。
『それでも、境界は、少しずつ、広がり続けてきました。タネがいるだけでは、完全には、抑えきれていない、ということですよね』
霧島は、黙って、頷いた。
『それに、今は、以前よりずっと、拡大が速くなっています。タネの力だけでは、もう、追いつかなくなっているのかもしれません』
亮は、自分の手のひらを、見つめてから、また、文字を打ち込んだ。
『霧島さん。もしかしたら……境界の奥に長くいて、記録できなくなるくらい、指の感覚も、何もかも、失っていく過程そのものが……その代わりに、何か、別の力を、得ることに、繋がっているんじゃないでしょうか』
『別の力、というのは』
『タネが、決まった場所に留まらず、動けるようになったことです。あれも、長くいたことで、得たものだと、以前、話しましたよね。もし、同じように……この場所に、働きかける力も、長くいることで、少しずつ、育っていくんだとしたら』
霧島は、しばらく、黙り込んでいた。
『深沢さん。それは、まだ、ただの想像です。確かめる術は、ありません』
『分かっています。それでも……タネ一人の力では、足りていない。それだけは、確かだと思います』
霧島は、亮の顔を、まっすぐに、見つめた。その目には、何かを、既に、決めたような、強い光が、宿っていた。
亮の胸に、悪い予感が、広がった。
亮は、震える指で、画面に、文字を打ち込んだ。
『霧島さん……?』
霧島は、静かに、首を振った。そして、スマートフォンに、最後の一文を、打ち込んだ。




