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きこえない  作者: 五稜 司


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20/22

第二十章「決断」

霧島が、最後に打ち込んだ文字を、亮は、じっと、見つめた。

『私が、行きます』

亮は、息を呑んだ。

『中心部に、留まって……タネのように、この場所に、関わり続けます。それが、望月さんたちを、助ける、唯一の方法かもしれません』

亮は、震える指で、文字を、打ち返した。

『駄目です』

『深沢さんには、結衣さんが、います。私には……』

霧島は、そこで、一度、手を止めた。

『私には、記録係の血が、流れています。タネと、同じ血筋です。この役目は、私が、負うべきものです』

亮は、首を、強く、横に振った。二人は、それ以上、その場では、言葉を交わせなかった。境界の中では、これ以上の、込み入った話は、できない。二人は、無言のまま、来た道を、戻り始めた。


歩きながら、亮は、何度も、霧島の横顔を、盗み見た。その表情は、これまでに見た、どの時よりも、静かだった。まるで、既に、覚悟の先に、立っているかのように。

境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に、戻ってきた。

「霧島さん、待ってください」

「深沢さん」

霧島は、静かに、しかし、はっきりとした声で、続けた。

「先ほどの話は、本気です」

「駄目です。霧島さんを、行かせるわけには、いきません」

「では、深沢さんが、行くと、仰るんですか?」

亮は、言葉に、詰まった。

「僕は……」

「深沢さんには、結衣さんが、います。もし、深沢さんが、戻らなければ、結衣さんは、一生、父親を、失ったまま、生きていくことになります。私には、その意味での、家族は、いません」

「霧島さんにだって、大切なものが」

「あります。でも、それは、結衣さんの重さとは、違います」


「違わない」亮は、思わず、声を、荒げた。「霧島さんの人生も、同じくらい、重いはずです。誰かにとって、大切なはずです」

霧島は、一瞬、目を、伏せた。だが、すぐに、顔を上げた。

「深沢さん。お気持ちは、嬉しいです。ですが、それでも、私は、行きます」

「他に、方法は、本当にないんですか。もう少し、時間をかければ……」

「時間は、もう、ありません。それに」霧島は、静かに、続けた。「私は、記録係の家系に、生まれました。物心ついた頃から、この土地を、見守る役目を、負ってきました。タネも、二百年前のあの男も……皆、同じ血筋の者たちです。私だけが、その責任から、逃れることは、できません」

「霧島さんが、犠牲になる、必要は、ないはずです」

「犠牲、ではありません」

霧島は、亮の目を、まっすぐに、見つめた。

「これは、私が、選ぶことです。深沢さんに、決めさせるものでは、ありません」


亮は、何も、言い返せなかった。ただ、霧島の、揺るがない目を、見つめ返すことしか、できなかった。

その時、二人のもとに、蓮見が、駆け寄ってきた。

「深沢さん、霧島さん! 無事で……」

蓮見は、二人の様子から、何かを、察したようだった。表情が、みるみる、曇っていく。

「霧島さん。まさか」

「蓮見さん。詳しいことは、後で、お話しします。ですが……私は、もう一度、境界の奥に、入るつもりです」

蓮見は、絶句した。

「そんな……それは、駄目です。危険すぎます」

「蓮見さんも、反対されるんですね」

「当然です! 霧島さんまで、失うわけには」

「蓮見さん」

霧島は、静かに、蓮見の言葉を、遮った。

「私の家系が、代々、この役目を、担ってきました。もし、私が、ここで、引き下がれば……次の周期で、もっと多くの人が、同じ苦しみを、味わうことになるかもしれません」

蓮見は、何かを、言いかけて、結局、言葉を、飲み込んだ。その顔には、深い、無力感が、浮かんでいた。


その夜、亮は、宿の一室で、一人、天井を、見上げていた。

霧島の言葉が、頭の中で、何度も、繰り返されていた。

……これは、私が、選ぶことです。

だが、亮の中で、何かが、納得できずにいた。霧島を、このまま、行かせていいのか。他に、方法は、本当に、ないのか。

亮は、携帯を取り出し、これまでの記録を、もう一度、見返した。タネの筆跡。二百年前の男の証言。望月徹の、悪化していく苦しみ。早苗の、日記の一節。主婦の、証言。

そのどれもが、断片的で、確かなことは、何一つ、なかった。

亮は、ふと、自分自身のことを、思った。


……僕も、既に、名を呼ばれている。もし、僕が、行けば。

その考えを、何度も、打ち消そうとした。だが、打ち消しても、打ち消しても、その考えは、亮の中に、居座り続けた。結衣の顔が、脳裏をよぎる。

……結衣に、会いたい。でも、霧島さんを、このまま、行かせることも、できない。

亮は、拳で、額を、強く、押さえた。答えの出ない、堂々巡りの、思考だった。

携帯が、震えた。母からの、メッセージだった。

「結衣が、今日も、パパのこと、聞いてたよ。早く帰ってきてね」

その、たった一文が、亮の胸を、深く、締め付けた。

亮は、しばらく、その文字を、見つめ続けた。それから、携帯を、静かに、伏せた。

……まだ、決められない。

亮は、拳を、握りしめた。残された時間は、あと四日。答えを出す前に、まだ、確かめなければならないことが、あるはずだった。

窓の外、旧市街の方角に目をやる。今日も、その静けさは、変わらず、そこに在り続けていた。だが、その静けさの奥で、霧島の覚悟が、既に、固まりつつあることを、亮は、痛いほど、感じていた。

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