第二十章「決断」
霧島が、最後に打ち込んだ文字を、亮は、じっと、見つめた。
『私が、行きます』
亮は、息を呑んだ。
『中心部に、留まって……タネのように、この場所に、関わり続けます。それが、望月さんたちを、助ける、唯一の方法かもしれません』
亮は、震える指で、文字を、打ち返した。
『駄目です』
『深沢さんには、結衣さんが、います。私には……』
霧島は、そこで、一度、手を止めた。
『私には、記録係の血が、流れています。タネと、同じ血筋です。この役目は、私が、負うべきものです』
亮は、首を、強く、横に振った。二人は、それ以上、その場では、言葉を交わせなかった。境界の中では、これ以上の、込み入った話は、できない。二人は、無言のまま、来た道を、戻り始めた。
歩きながら、亮は、何度も、霧島の横顔を、盗み見た。その表情は、これまでに見た、どの時よりも、静かだった。まるで、既に、覚悟の先に、立っているかのように。
境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に、戻ってきた。
「霧島さん、待ってください」
「深沢さん」
霧島は、静かに、しかし、はっきりとした声で、続けた。
「先ほどの話は、本気です」
「駄目です。霧島さんを、行かせるわけには、いきません」
「では、深沢さんが、行くと、仰るんですか?」
亮は、言葉に、詰まった。
「僕は……」
「深沢さんには、結衣さんが、います。もし、深沢さんが、戻らなければ、結衣さんは、一生、父親を、失ったまま、生きていくことになります。私には、その意味での、家族は、いません」
「霧島さんにだって、大切なものが」
「あります。でも、それは、結衣さんの重さとは、違います」
「違わない」亮は、思わず、声を、荒げた。「霧島さんの人生も、同じくらい、重いはずです。誰かにとって、大切なはずです」
霧島は、一瞬、目を、伏せた。だが、すぐに、顔を上げた。
「深沢さん。お気持ちは、嬉しいです。ですが、それでも、私は、行きます」
「他に、方法は、本当にないんですか。もう少し、時間をかければ……」
「時間は、もう、ありません。それに」霧島は、静かに、続けた。「私は、記録係の家系に、生まれました。物心ついた頃から、この土地を、見守る役目を、負ってきました。タネも、二百年前のあの男も……皆、同じ血筋の者たちです。私だけが、その責任から、逃れることは、できません」
「霧島さんが、犠牲になる、必要は、ないはずです」
「犠牲、ではありません」
霧島は、亮の目を、まっすぐに、見つめた。
「これは、私が、選ぶことです。深沢さんに、決めさせるものでは、ありません」
亮は、何も、言い返せなかった。ただ、霧島の、揺るがない目を、見つめ返すことしか、できなかった。
その時、二人のもとに、蓮見が、駆け寄ってきた。
「深沢さん、霧島さん! 無事で……」
蓮見は、二人の様子から、何かを、察したようだった。表情が、みるみる、曇っていく。
「霧島さん。まさか」
「蓮見さん。詳しいことは、後で、お話しします。ですが……私は、もう一度、境界の奥に、入るつもりです」
蓮見は、絶句した。
「そんな……それは、駄目です。危険すぎます」
「蓮見さんも、反対されるんですね」
「当然です! 霧島さんまで、失うわけには」
「蓮見さん」
霧島は、静かに、蓮見の言葉を、遮った。
「私の家系が、代々、この役目を、担ってきました。もし、私が、ここで、引き下がれば……次の周期で、もっと多くの人が、同じ苦しみを、味わうことになるかもしれません」
蓮見は、何かを、言いかけて、結局、言葉を、飲み込んだ。その顔には、深い、無力感が、浮かんでいた。
その夜、亮は、宿の一室で、一人、天井を、見上げていた。
霧島の言葉が、頭の中で、何度も、繰り返されていた。
……これは、私が、選ぶことです。
だが、亮の中で、何かが、納得できずにいた。霧島を、このまま、行かせていいのか。他に、方法は、本当に、ないのか。
亮は、携帯を取り出し、これまでの記録を、もう一度、見返した。タネの筆跡。二百年前の男の証言。望月徹の、悪化していく苦しみ。早苗の、日記の一節。主婦の、証言。
そのどれもが、断片的で、確かなことは、何一つ、なかった。
亮は、ふと、自分自身のことを、思った。
……僕も、既に、名を呼ばれている。もし、僕が、行けば。
その考えを、何度も、打ち消そうとした。だが、打ち消しても、打ち消しても、その考えは、亮の中に、居座り続けた。結衣の顔が、脳裏をよぎる。
……結衣に、会いたい。でも、霧島さんを、このまま、行かせることも、できない。
亮は、拳で、額を、強く、押さえた。答えの出ない、堂々巡りの、思考だった。
携帯が、震えた。母からの、メッセージだった。
「結衣が、今日も、パパのこと、聞いてたよ。早く帰ってきてね」
その、たった一文が、亮の胸を、深く、締め付けた。
亮は、しばらく、その文字を、見つめ続けた。それから、携帯を、静かに、伏せた。
……まだ、決められない。
亮は、拳を、握りしめた。残された時間は、あと四日。答えを出す前に、まだ、確かめなければならないことが、あるはずだった。
窓の外、旧市街の方角に目をやる。今日も、その静けさは、変わらず、そこに在り続けていた。だが、その静けさの奥で、霧島の覚悟が、既に、固まりつつあることを、亮は、痛いほど、感じていた。




