第二十四章「静けさの行方」
境界を出た瞬間、亮の耳に、自分の荒い息づかいが、一気に、戻ってきた。
蓮見が、駆け寄ってくる。
「深沢さん! 霧島さんは……」
亮は、何も、言えなかった。ただ、首を、横に振った。
蓮見は、その場に、崩れ落ちるように、膝をついた。しばらく、何も、言葉にならない、嗚咽だけが、その場に、響いていた。
亮は、震える手で、握りしめていた、霧島のスマートフォンを、蓮見に、見せた。
「霧島さんが……最後に、これを託してくれました」
蓮見は、震える手で、そのスマートフォンを、受け取った。画面に残された、あの、途切れたメッセージを、何度も、何度も、読み返していた。
「……霧島さんらしい」
蓮見は、涙を拭いながら、そう、絞り出した。
その日の夕方、町の観測班から、報告が入った。
「境界の拡大速度が……大幅に、鈍化しています」
会議室に、その報せが届いた瞬間、誰もが、息を呑んだ。
「鈍化、というのは、どの程度」
「この数時間、ほとんど、拡大が、止まっています。念のため、もう少し、様子を見る必要がありますが……」
蓮見が、亮の方を、見た。亮は、ただ、頷くことしか、できなかった。
……霧島さんが、確かに、止めてくれた。
だが、その事実を、素直に喜ぶことは、亮には、できなかった。彼女が、その代償として、何を失ったのかを、思うと、胸の奥が、締め付けられるようだった。
数日後、境界の拡大は、完全に、停止したことが、確認された。町全体への避難勧告は、一旦、解除された。国の機関からも、状況の鎮静化を認める発表が、なされた。
だが、境界そのものが、消えたわけではなかった。旧市街の広い範囲を、今も、あの静寂が、変わらず、覆い続けている。それでも、観測班の報告には、小さな一文が、添えられていた。境界の外縁が、ほんのわずかながら、後退している箇所が、確認された、と。
亮は、霧島が、あの日、岩に手を触れた瞬間に、流れ込んできた、あの感覚を、何度も、思い返していた。
……一人では、足りなかった。でも、二人なら。
拡大を止めることは、できた。しかも、ほんのわずかとはいえ、既に、後退の兆しまで、現れている。この広がりきった静寂そのものも、いつか、押し戻せるものなのかもしれない。
その答えを探すように、亮は、資料館の一室に、こもるようになった。霧島から託された、代々の記録の写しを、一つ一つ、丁寧に、読み返していく。文字が、掠れて、消えかけている箇所は、新しい紙に、書き写した。記録係が、代々、続けてきたという、その作業を、亮も、見様見真似で、始めていた。
ある帳面の、ページの隅に、亮は、小さな、書き込みを、見つけた。
『タネ、奥へ進みてより、幾星霜を経て、境界、ついに、失せたりと聞く』
「幾星霜」という言葉に、亮は、目を、留めた。タネが、たった一人で、支え続けていた時でさえ、長い年月をかけて、最終的には、静けさが、去っていった。そういうことらしかった。
……あの、わずかな後退は、気のせいなんかじゃない。
亮は、確信に近いものを感じた。一人でも、いつかは終わる。それなら。
亮は、拳を握りしめた。二人になった今、あの日、確かに感じた、あの、重みが軽くなる感覚を思い出す。もし、支える者が増えるほど、その年月が短くなるのだとしたら。新たな犠牲を、これ以上、払わなくても……時間はかかっても、いつか、必ず、終わる日が、来るのかもしれない。
それは、まだ、確証のない、希望に、過ぎなかった。それでも、亮の中に、小さな、灯りのように、残り続けていた。
亮は、さらに、もう一つ、気になっていることがあった。
……なぜ、あの岩は、望月さんたちを、拡大の燃料にする一方で、タネや、霧島さんが触れた時には、逆に、縮小の方向に、働いたんだろう?
同じ場所に、同じように、力を、注ぎ込んでいるはずだった。それなのに、結果は、正反対だった。
亮は、これまでの、すべての記録を、思い返した。望月や、囚われた人々の、苦しみと、恐怖。それに対して、タネや、霧島が、岩に触れた時に、抱えていたのは……誰かを、守りたいという、意志だった。
……あの岩は、ただの、燃料の受け皿じゃない。触れる者の、想いの向きそのものを、映す、切り替えのようなものなのかもしれない。
奪われることへの、恐怖や苦しみは、拡大の力に、変わる。だが、誰かのために、自ら差し出す、強い想いは、逆に、それを、縮める力に、変わるのだとしたら。
それも、まだ、証明のできない、想像に過ぎなかった。それでも、この、あまりにも理不尽な現象の中に、辻褄の合う、一つの筋道が見えた気がした。
もう一つ、亮の中に、ずっと、引っかかっていることがあった。
……国の調査員たちは、境界に入って、わずか一日足らずで、身動きが取れなくなっていた。なのに、僕と霧島さんは、何度も、あそこまで、足を運ぶことが、できていた。
その違いを、亮は、あの、燃料の理論に、重ねて、考えてみた。
もし、苦しみや、恐怖そのものが、境界にとっての、燃料なのだとしたら……何も知らないまま、恐怖に、飲み込まれていった調査員たちは、その分だけ、早く、多くの燃料を、注ぎ込んでしまったのではないか。
一方で、亮と霧島は、何が起きているかを、少しずつ、理解しながら、進んできた。恐怖が、なかったわけではない。それでも、得体の知れないものへの、純粋な恐慌とは、違っていたはずだった。
……知ることが、身を守ることに、繋がっていたのかもしれない。
亮は、その考えを、ノートの片隅に、書き留めた。誰かが、この後も、境界と関わることになるなら……その人にとって、この記録が、少しでも、助けになるように。
……この記録を、絶やさないでください。
霧島の言葉が、耳の奥に、こびりついたまま、離れなかった。
窓の外を見ると、町には、少しずつ、以前の喧騒が、戻り始めていた。子供たちの声。車の走行音。当たり前だった、日常の音。
だが、亮の中では、何かが、決定的に、変わってしまっていた。
亮は、机の上に置かれた、二台のスマートフォンを、見つめた。一台は、自分のもの。もう一台は、もう戻らない、霧島のもの。
……これから、どうすればいいのか。
答えは、まだ、出ていなかった。それでも、亮は、ペンを取り、新しいノートの一ページ目に、そっと、日付を、書き込んだ。
何かを、始めなければならない。それだけは、確かだった。




