第二十三章「置いていく声」
境界の際で、蓮見が、二人を、待っていた。
「霧島さん、深沢さん……」
蓮見の顔は、青白く、強張っていた。何かを、既に、察しているようだった。
「蓮見さん。今まで、お世話に、なりました」
霧島は、静かに、そう、告げた。それから、少し、間を置いて、続けた。
「弟のこと、もう一度、お願いします。あの子は、まだ、神社のことを、何もかも、分かっているわけじゃありません。困った時は……力を、貸してあげてください」
その声には、これまでの、覚悟を決めた口調とは、少し違う、柔らかな、未練のようなものが、滲んでいた。
「霧島さん、本当に……」
「はい。行ってきます」
その言い方が、まるで、いつもの、ただの調査に、出かけるかのように、あまりにも、自然だったことが、かえって、亮の胸を、抉った。
蓮見は、何かを、言おうとして、結局、言葉に、ならなかった。ただ、深く、頭を下げた。
亮と霧島は、頷き合い、境界の中へと、足を踏み入れた。
いつもと変わらない静寂が、二人を、包んだ。だが、今日という日の、その静けさには、これまでにない、重みが、あった。
石畳の道を抜け、井戸のそばを通り、石碑の間を、抜けていく。国の調査員たちの姿は、以前と、変わらず、そこにあった。二人は、その傍らを、静かに、通り過ぎた。
円形の広場に、辿り着く。
タネは、既に、岩のそばに、立っていた。こちらを、向いている。あの、幾つもの顔が、重なり合う、表情のまま。
霧島は、亮の方を、向いた。震える手で、スマートフォンを、取り出す。
『深沢さん。ここまでで、十分です』
亮は、首を、強く、横に振った。画面に、文字を、打ち込む。
『もう少し、一緒に、行かせてください』
『深沢さんは、ここで、待っていてください。これ以上、深くは、来ないで』
亮は、それでも、一歩、前に、出ようとした。霧島が、その腕を、掴んだ。強い力だった。
『お願いです。ここで、見ていてください』
亮の目に、涙が、滲んだ。声を、上げたかった。だが、届かないと、分かっていた。
霧島は、亮の手を、一度、強く、握った。それから、ゆっくりと、岩の方へ、歩き出した。
タネの隣に、霧島が、並んで、立った。
タネが、ゆっくりと、霧島の方を、向いた。二人の、老いた女と、若い女の姿が、並ぶ。同じ血を引く、記録係の、二人の姿だった。
霧島は、もう一度、亮の方を、振り返った。震える指で、メッセージを、打ち込む。
亮の携帯が、微かに、振動した。画面に、文字が、表示される。
『深沢さん。結衣さんを、大切に』
亮は、涙で、霞む目で、その文字を、見つめた。
霧島が、次のメッセージを、打とうとしているのが、遠目にも、分かった。だが、その指の動きが、明らかに、鈍くなっていた。画面に触れているはずなのに、文字が、思うように、入力されていかない。
亮の携帯に、また、通知が、届いた。
『それから……』
それきり、続きは、届かなかった。
霧島は、もう一度、指を、動かそうとした。だが、何も、送られてこなかった。まるで、指先が、既に、その感触を、失いかけているかのように。
霧島は、諦めたように、書くことを、やめた。携帯を、両手で、包み込むように、持ち直す。それから、しゃがみ、地面に、そっと、その手を、置いた。
「託します。」声にならない、その表情だけで、はっきりと、伝わってきた。
霧島は、携帯を、亮の方へ向けて、力を込めて、滑らせた。石畳の上を、滑っていく、乾いた音のない、軌跡だけが、亮の目に、焼きついた。それは、途中で、勢いを失いながらも、亮の、すぐ手前まで、届いた。
亮は、震える手で、それを、拾い上げた。まだ、温かかった。
霧島は、亮の方を、見て、静かに、微笑む。
声にならない、その微笑みだけが、最後の、言葉だった。
霧島は、もう、こちらを、振り返らなかった。そのまま、静かに、岩の方へと、向き直る。
岩の前に、辿り着くと、霧島は、手を、触れた。
その瞬間、周囲の空気が、大きく、揺れた。
亮の頭の中に、また、あの、途方もない重みの感覚が、流れ込んできた。だが、今度は、それだけではなかった。霧島の存在そのものが、その重みの、一部に、なっていくのを、亮は、確かに、感じ取った。
タネと、霧島。二つの、支える者の気配が、重なり合う。
その瞬間、周囲を、覆っていた、あの、圧し潰されるような重さが、わずかに、和らいだ。同心円状に並んだ、石碑の一つ一つが、順に、淡く、光を帯びていく。まるで、波紋が、広がっていくように。
遠く、石碑の連なりの向こうで、旧市街を覆っていたはずの、あの息苦しいまでの静寂が、ほんの少しだけ、緩んだ気配があった。二人分の気配が、支えに、加わったことで、何かが、確かに、変わったのだと、亮は、肌で、感じ取った。
……一人では、足りなかった。でも、二人なら。
その考えが、亮の頭を、稲妻のように、駆け抜けた。もし、支える者が、増えるごとに、この重さが、均されていくのだとしたら。境界の拡大を、本当の意味で、止める方法も、そこに、あるのかもしれない。
だが、その手がかりに気づいた喜びよりも、目の前で、霧島を、失っていく悲しみの方が、遥かに、大きかった。
亮は、その場に、崩れ落ちた。声にならない、叫びが、喉の奥から、込み上げる。
霧島の姿は、まだ、そこに、あった。だが、その表情は、既に、タネと同じように、幾つもの顔が、重なり合う、あの、像を結ばない表情に、変わり始めていた。
……ありがとう。
言葉ではなかった。それでも、亮の頭の中に、確かに、そう、響いた気がした。
亮は、涙を、拭うこともできないまま、その場に、うずくまっていた。連れ戻すことは、もう、できない。それだけが、痛いほど、分かっていた。
長い、長い時間が、経ったように、感じられた。だが、実際には、恐らく、ほんの数分のことだったのだろう。
亮は、自分の携帯と、霧島から託された、もう一台の携帯を、両手に、握りしめた。そこに残された、彼女の最後のメッセージと、この、まだ温もりの残る機体だけが、今、確かに、手元にある、彼女の全てだった。
震える足で、立ち上がる。そのまま、円形の広場を、後にした。振り返ることは、しなかった。振り返れば、二度と、足が、動かなくなる気がした。




