第二十二章「前夜」
その日の午後、霧島は、神社の書庫に、亮を、連れて行った。
「深沢さん。私は、もう、戻ってこないつもりです。だから、今のうちに、伝えておきたいことが、あります」
その言葉を、迷いなく、口にする霧島の横顔を、亮は、まじまじと、見つめた。恐怖も、迷いも、既に、そこには、見当たらなかった。まるで、遠い昔から、この日が、来ることを、知っていたかのような、静けさだった。
霧島は、古い木箱を、一つ、取り出した。中には、代々の記録係が、書き残してきた、帳面の写しが、几帳面に、収められていた。
「これらは、すべて、資料館の複製とは、別に、この神社に、保管されてきたものです。これを深沢さんに、託します」
「霧島さん……」
「私が、奥に入った後は……この記録を、絶やさないで頂きたいのです。町の記憶が、薄れていっても、これだけは、残るように」
亮は、震える手で、木箱を、受け取った。その重みが、これまでのどの瞬間よりも、はっきりと、亮の腕に、伝わってきた。
「霧島さん。本当に、いいんですか。こんな形で、決めてしまって」
「深沢さん」霧島は、静かに、微笑んだ。「私は、後悔していません。これは、私が、自分で選んだ道です」
その微笑みが、かえって、亮の胸を、締め付けた。覚悟を決めた人間の顔は、こんなにも、穏やかなのかと、思い知らされた。
その夜、霧島は、蓮見と、短く、言葉を交わしていた。
「蓮見さん。私の身に、何かあった時は、神社のこと、弟のことを、よろしくお願いします」
「霧島さん……本当に、行かれるんですか?」
「はい」
蓮見は、深く、頭を下げた。それ以上、何も、言えないようだった。
亮は、宿に戻ると、携帯を取り出し、実家に、電話をかけた。
「もしもし?」
母の声だった。
「母さん。結衣は」
「もう、寝ちゃったところよ。どうしたの、こんな時間に」
亮は、少しの間、言葉を、選んだ。
「……ちょっと、仕事が、山場でね。うまく、いくかどうか、分からないんだ」
「大丈夫なの?」
「うん。大丈夫。ただ……もし、何かあったら、結衣のこと、よろしくお願いします」
電話の向こうで、母が、しばらく、黙り込んだ。
「またそれなの? 亮。あんた、何か、危ないことでも、しようとしてるんじゃないでしょうね」
亮は、言葉に、詰まった。
「前にも、同じようなこと、言ってたじゃない。それも、一度や二度じゃないわよ」
「……大袈裟に、考えすぎだよ」
「亮」母の声が、真剣な響きを、帯びた。「お母さん、ちゃんと、分かってるから。あんたが、何かを、隠してるってことくらい」
亮は、目を閉じた。何と、答えればいいのか、分からなかった。
「……ごめん。心配、かけて」
「謝らなくていいから、無事に、帰ってきなさい。結衣が、待ってるんだから」
「うん……必ず」
自分の声が、我ながら、上滑りしているのが、分かった。電話を切った後も、その言葉の軽さが、耳に、残り続けた。
亮は、しばらく、暗い天井を、見上げていた。
……霧島さんは、明日、行く。
その事実が、今更のように、重く、のしかかってきた。止める権利は、もう、自分にはない。霧島は、既に、覚悟を、決めている。あの、穏やかな微笑みを、思い出すたびに、亮の胸は、締め付けられた。
それでも、亮の中で、何かが、まだ、燻り続けていた。
……本当に、これで、いいのか。霧島さんを、一人だけ、行かせて。
亮は、携帯の画面に、これまで撮り溜めた、録音データの一覧を、表示させた。望月の声。タネと対峙した時の、あの重みの感覚。霧島の、震える文字。
そのどれもが、これから起きることの、答えには、ならなかった。ただ、確かなのは、明日、霧島が、二度と戻らない場所へ、向かうという、事実だけだった。
亮は、拳を、額に、押し当てた。
……僕にも、何か、できることは、ないのか。
答えの出ないまま、夜が、更けていった。
翌朝、亮は、資料館の前で、霧島と、落ち合った。
霧島は、いつもと変わらない、静かな佇まいで、そこに立っていた。だが、その手には、小さな、鞄が一つ、握られていた。
「深沢さん。準備は、いいですか?」
「……はい」
亮は、短く、答えた。喉の奥が、渇いていた。言いたいことは、山ほどあった。だが、どれも、今、口にすべき言葉ではない気がした。
二人は、無言のまま、旧市街へと続く、坂道を、歩き始めた。今日で、残された日数は、あと二日。境界の際が、もう、すぐそこまで、見えていた。




