終章「くすぶる声」
あれから、二ヶ月が経った。
境界は、あの日を境に拡大を止めたまま、今も、旧市街の広い範囲を、覆い続けている。観測班の報告では、この二ヶ月間の、ごくわずかな後退幅を、単純に一年分に換算すると、年に数メートルという、気の遠くなるような速さにしかならないという。タネの記録が正しければ、いつか、必ず、この静寂は去っていく。だが、それが、何十年先のことになるのか、今の亮には、まだ、分からなかった。
避難していた住民の、多くは、既に、町に、戻ってきていた。だが、旧市街に、近い一角に、家を構えていた人々は、今も、避難所や、親類の家での、暮らしを、続けている。町からは、いつ、自宅に戻れるようになるのか、はっきりとした見通しは、まだ、示されていなかった。
望月徹は、あれから一度も、外に出てきていない。
亮は、月に一度、境界の際まで足を運び、遠くから、望月家の方角を、見つめることを、続けていた。中には、決して、入らない。それが、霧島との、暗黙の約束のような、気がしていた。
早苗への、あまりにも深い未練は、恐らく、何年経っても、尽きることはないのだろう。亮は、そう、思わずにはいられなかった。彼を、連れ戻す方法は、今も、見つかっていない。それでも、いつか、望月自身が、自分の意志で、あの、燃え尽きるほどの、想いに、区切りをつける日が、来るのかもしれない。亮は、そう、祈ることしか、できなかった。
国の調査員、二人についても、その後、公式な発表は、なされていない。
町では、「殉職」という言葉が、静かに使われるようになった。だが、その本当の状態を知る者は、亮と蓮見の他には、いなかった。二人もまた、境界の奥で、望月と同じように、今も恐怖に、囚われ続けているのだろう。国は、この一件について、多くを公にしなかった。そして町の名前は、いつしかニュースから消えていった。
行方不明になった、七人のうち、大野正一と、あの主婦の女性に続いて、三人目の生還者が、現れたのは、境界が停止してから、二週間ほど、経った頃だった。
肝試しの最中に消えた、あの、小学四年生の少年だった。
少年は、境界の外れで、憔悴した様子で発見された。大野や主婦の時と同じような経過だった。身体的な大きな異常はない。ただ、失踪していた間の記憶は、ほとんど残っていなかった。
亮は少年の家族から、話を聞く機会を得た。両親によれば、少年は、無事に日常生活に戻っているという。学校にも通い始めているという。
だが、母親が一つだけ気になることを口にした。
「あの子、時々、誰もいない場所を、じっと、見つめていることがあるんです。何を見てるのか聞いても、『何でもない』って、はぐらかされて」
亮の背筋に、冷たいものが、走った。
「……境界は、場所の問題だけじゃない。人間の内側にも、存在するかもしれない」
霧島が、かつて、口にしたその言葉を、亮は思い出さずにはいられなかった。少年の中に、何か、新しい小さな「境界」のようなものが、芽生えてしまったのだとしたら。それは、恐らく、誰にも気づかれることのない、彼だけの秘密になるのだろう。
亮は、それ以上、深く追及することは、しなかった。今はただ、少年が、家族のもとで穏やかに過ごせることを願うしかなかった。
残り、四人の行方不明者については、今も、何の手がかりも見つかっていない。
亮は、大野と、主婦のケースを、改めて記録にまとめながら考えた。まだ、姿を見せない、残りの四人が抱えていた「届かなかったもの」は、大野や主婦よりも、遥かに深いものだったのだろう。時間が彼らを解き放つには、あと、どれほどの歳月が必要になるのか。それは、誰にも分からなかった。
大野正一の本当の記憶について、亮は、一つだけ、知ってしまったことがあった。
望月徹の録音データを、改めて解析していた時のことだった。あの、幾重にも重なる古い声の中に、亮は、聞き覚えのある声を見つけた。三週間だけ、境界に捕らわれていた、大野の声だった。
その声は、助けを求めていた。何度も、何度も。だが、その言葉の端々に、亮は、あるものを聞き取ってしまった。
大野は、あの三週間、一人ではなかった。境界のもっと奥にいる誰かと、言葉を交わしていた形跡があったのだ。それが、誰だったのか、何を話していたのか、録音からは判然としなかった。
亮は、その録音を何度も、聞き返しながら考えた。境界内では、誰の声も互いには届かない。だとすれば、大野が言葉を交わしていたように聞こえたのは……恐らく、会話ではなかったのだろう。
タネが、亮や霧島の頭に、直接、感覚を流し込んできたように、大野もまた、誰かから頭の中に直接、語りかけられていたのではないか。そして、それに、無意識のうちに声で応えてしまっていた。傍から聞けば、まるで、対話をしているかのように。
だとすれば、大野に、語りかけていたのは、一体、誰だったのか。その答えだけは、どれだけ録音を聞き返しても、亮には分からなかった。
だが、大野本人は、そのことを何一つ覚えていない。屈託のない顔で、今も果店の前で、店主と世間話をしているという。
亮は、その記録を誰にも、話さなかった。この事実を知る意味が、誰かにあるとは思えなかった。ただ、記録として、そっと、書き残しただけだった。誰にも知られないまま、それでも、確かにあったこととして。
亮は、ようやく、実家に帰ることができた。
「パパ!」
結衣が、玄関先で飛びついてきた。その小さな身体を、亮は、力いっぱい、抱きしめた。
「ただいま」
その一言を、口にできたことが、これまでの、どんな瞬間よりも、亮の胸を熱くした。
「結衣、パパの声、ちゃんと近くから聞こえる?」
結衣は、不思議そうな顔で、亮を見上げた。
「うん、いつも通りだよ? パパ、変なこと聞くね」
亮は笑いながら、もう一度、結衣を抱きしめた。涙が堪えきれず、頬を伝った。
その週末、亮は雨宮町へ戻った。神社の境内で、霧島の弟と会うためだった。
弟は、亮よりいくつか年下の若者だった。姉とよく似た、静かな佇まいをしている。
「これを」
亮は震える手で、霧島のスマートフォンを差し出した。
「あなたのお姉さんが、最後まで持っていたものです。あなたのことを、最後まで気にかけていました」
弟は、それを両手で受け取。しばらく、無言のまま、画面を見つめていた。
「姉らしいです」
その一言だけを、絞り出すように、口にした。それ以上は、何も言えないようだった。亮も、それ以上、何も言わなかった。ただ、隣に立ち、しばらくの間、共に境内の静けさに身を委ねていた。
亮は、今も、記録係の仕事を続けている。
資料館の一室に通いながら、霧島から託された代々の記録を、少しずつ、書き写している。町の人々の記憶からは、この出来事も、いずれ、薄れていくだろう。だが、この記録だけは絶対に絶やさない。それが亮にできる、たった一つの償いであり、約束だった。
窓の外、旧市街の方角に、目をやる。
そこには、今日も、あの変わらない静寂が広がっている。表向きは、収束したはずのこの出来事。だが、その静けさの奥では、今も望月が、二人の調査員が、そして、名も知らない四人が、声にならない声を上げ続けている事だろう。
境界は、まだ、完全には終わっていない。
そして、亮は時折考える。あの少年のように、自分の中にも、既に、小さな「境界」が芽生えてしまっているのではないか、と。境界の奥で、幾度となく感じた、あの、記憶の空白。指の感触の喪失。頭の中に、直接響いた声。
それが、いつか、目を覚ますのか。それとも、このまま、一生、眠り続けたままなのか。亮には、まだ分からない。
だが、それすらも、記録として、残しておくべきなのだろう。もし、いつか、自分の身に何かが起きた時のために。誰かが、この続きを読むことになった時のために。
亮は、ノートに、そう、書き加えた。
くすぶり続けるその静けさを、亮は、これからも、見つめ続けることになる。自分自身の内側にある、その、小さな灯火ごと。いつか、本当の意味で、この静寂が消え去る日まで。
当初はここまで長い物語にするつもりはありませんでした。自分では初めてのホラー作品。書いてる内に、話が勝手に走り出し、気づけば終章まで含めて25章という長編になってしまいました。自分で読み返すと、まだ色々不満な点は残っているものの、今は書き終えた充足感に満たされてます。今後はホラーを含め、色々なジャンルにも挑戦していこうと思います。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




