第6話:震える妹と顔を青くする父。今さら「戻れ」と言われても
夜会の喧騒が、潮が引くように静まっていく。
カサンドラの周囲にいた男たちは、もはや彼女の「愛らしい困り顔」に目を向けることはなかった。彼らの視線は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、会場の中心で静かに佇むエルザたち――カルタスの令嬢たちが放つ、一分の隙もない静謐な美しさに釘付けにされていた。
「リュシアン殿下、あの……私、少し気分が……」
カサンドラが不安げに婚約者の袖を引いた。しかし、殿下はその視線をエルザたちに向けたまま、ぼんやりと呟いた。
「……カサンドラ、少し静かに。……見てごらん、あのカルタスの令嬢たちを。指先一つ、視線の配り方一つに至るまで、君がいつも見せていたものとは『格』が違う。……あれこそが、私が理想としていた気品だ。今まで君がしていたのは、ただの子供の真似事だったのか?」
殿下の言葉に、カサンドラの顔から血の気が引いた。それは怒りというより、純粋な失望に近い。彼女が私から奪った「愛嬌」という名のメッキは、本物の教養を備えた女性たちの前では、あまりに脆く、安っぽいものだった。
その光景を、ヴァランシエンヌ侯爵――私の父は、震える目で見つめていた。
彼は社交界の重鎮として、理解してしまったのだ。カサンドラの「可愛らしさ」だけでは、もはや他国の洗練された貴族たちとは渡り合えない。今日この場で、ヴァランシエンヌ家の権威は、かつて自分が捨てたはずの「完璧な教育」によって、完膚なきまでに叩き潰されたことを。
私は、会場を囲む回廊の影から、ゆっくりと光の中へ踏み出した。
歩みに合わせて、絹のように艶やかな黒髪が背中で優雅に波打つ。一切の足音を立てず、空気そのものを従えるような私の登場に、広間の空気が張り詰めた。
「――お久しぶりですわ、お父様。そしてカサンドラ」
「リ、リディアーヌ……!」
父の顔が、驚愕に歪んだ。
彼は、目の前に立つ私が放つ、かつてより一層研ぎ澄まされた「支配的な美しさ」に気圧され、言葉を失った。
「お姉様……どうして。どうして貴女がここに……!」
震える声で問うカサンドラに、私は至近距離で、慈悲深くも冷ややかな淑女の微笑みを向けた。
「どうして、ですって? おかしなことを仰るのね。貴方たちが私からすべてを奪い、行き場を失って途方に暮れていた私を、快く迎え入れてくださったのがこちらの国でした。ただ、それだけのことですわ」
私の淡々とした言葉に、父の顔がさらに青ざめる。
自分たちが「無能」と切り捨て、雨の中に放り出した娘が、隣国で「至宝」として扱われている。その事実が、彼らにとって何よりの屈辱だった。
「お姉様……そんな、嘘よ。だって貴女のあの古臭い教育なんて、誰にも理解されないはずじゃ……」
「理解できなかったのは、貴方たちの方だった。……それだけのことでしょう?」
私は、すぐ近くで立ち尽くしていたエルザを視線で促した。エルザは迷いのない所作で私の隣に並び、非の打ち所がない完璧な一礼を父と妹に捧げた。その一礼だけで、カサンドラがこれまで積み上げてきた全ての「愛嬌」が、いかに浅ましく不完全なものであったかが残酷に強調される。
父の目に、焦りと打算の色が浮かんだ。
「リディアーヌ……待ちなさい。……あの日、私が言ったことは少し性急すぎた。認めよう、お前の教育こそが本物だ。カサンドラの指導案では、これほどの格差は埋められん。……戻ってこい。ヴァランシエンヌの名を、再びお前のその力で輝かせるんだ」
かつて私を泥の中に突き落とした男が、今さら身勝手な「取引」を持ちかけてくる。
その必死な形相は、教養も誇りも失った、ただの敗北者のそれだった。
「お断りいたしますわ、お父様」
私は、父の視線を優雅に、しかし氷のような冷たさで受け流した。
「私はもう、このカルタス王国で、私を正当に評価してくださる方々と共に歩むことを決めました。……土台を腐らせた建築物は、後から何を塗り固めても崩壊を止めることはできません。カサンドラが壊した秩序は、カサンドラ自身で償うべきでしょう?」
「ひどいわ、お姉様……! 私を見捨てるっていうの!?」
「見捨てたのは、貴女たちの方ではありませんか」
私は、泣き崩れるカサンドラと、後悔に顔を歪める父を背に、エルザと共に歩み出した。
背後で聞こえるのは、かつて私を笑い者にした者たちの、無様な呻き声。
それは、私の耳にはどんな音楽よりも心地よい、当然の報いの調べだった。
「さあ、エルザ様。夜会はまだ始まったばかりですわよ。……真の淑女が、いかにして場を支配するか。その続きを、皆様にお見せしましょう」
私は、手に持った扇を静かに畳んだ。
一度手放した価値を二度と取り戻せないのが、この世界の唯一の平等ですわ。
7話は本日20時ころ投稿予定となっております。次回最終回、お楽しみに




