第7話:洗練の果てに、彼女が掴んだもの
大夜会の熱狂は、夜が深まると共に、静かなる崇拝へと変わっていった。
広間を支配しているのは、もはやカサンドラの不確かな愛嬌ではない。エルザたちが体現する、一寸の乱れもない「本物の気品」であった。
私は、その中心から少し離れたテラスの陰で、冷えた夜気に身を委ねていた。
歩みに合わせて艶やかに揺れていた黒髪を、指先で静かに整える。背後では、祖国の使節団が、社交の場としての機能を失い、崩壊した沈黙に包まれているのがわかった。
「……リディアーヌ様」
背後からかけられた声は、エルザのものだった。
彼女は、今や完璧なまでの優雅さを保ったまま私の隣に立ち、夜空を見上げた。その横顔には、二週間前のような迷いも焦りもない。
「先生、私……今日初めて知りました。自分が完璧な作法を身に纏うことが、これほどまでに己を自由に、そして強くしてくれるものだということを」
「そうですか。……貴女に、その価値を理解させる機会があったことを、誇りに思いますわ」
私は、手元の扇をゆっくりと開き、月明かりをその金糸に反射させた。
教育とは、単なる知識の伝達ではない。それは、無防備な魂に「誇り」という名の装甲を、そして「知性」という名の武器を授ける行為だ。それを拒み、ただの上辺だけを求めたカサンドラたちが、今この瞬間にすべてを失うのは、あまりに当然の帰結であった。
そこへ、バルカス伯爵が近づいてくる。
「リディアーヌ嬢……いや、教育総監。陛下は、貴女を『王立礼節アカデミー』の初代学長として正式に迎えたいとのことだ。……そして、もう一つ。ヴァランシエンヌ侯爵から、多額の寄付金と共に『リディアーヌ嬢との面会』の嘆願書が届いているが……どうされる?」
私は、くすりと小さく笑った。
寄付金で娘の機嫌を買おうとする、その発想自体が、いかにも教養のない父らしい。
「伯爵、その寄付金はカルタスの孤児院へ。嘆願書は……暖炉の焚き付けにでもしておいてくださいな。私には、過去を振り返る時間は一秒もありませんの」
それから数ヶ月後。
私がカルタス王国で、次代を担う淑女や紳士たちに「支配の美学」を叩き込んでいる頃。
旧国ヴァランシエンヌ侯爵家の没落は、社交界の語り草となっていた。
カサンドラは、あの夜会でリュシアン殿下から事実上の婚約破棄を突きつけられた。
「愛嬌」という名の武器を失い、誰からも相手にされなくなった彼女は、焦って別の貴族に取り入ろうとした。しかし、私の論理的な裏付けがない彼女の振る舞いは、ただの「品の悪い媚び」として嘲笑の対象にしかならなかった。
今では、自分の部屋に引きこもり、かつて私が書き残した論文の切れ端を握りしめ、「どうして、どうして……!」と狂ったように泣き叫ぶ日々を送っているという。
父もまた、悲惨だった。
カルタス王国との外交競争に完敗し、貴族たちからも「本物の教育者を追い出した無能」という烙印を押された彼は、家の権威を保つために奔走したが、すべては裏目に出た。
カサンドラを贅沢させるために使い込んだ公金の発覚、そして重なる失策。
彼は夜な夜な、私が淹れたあの「可愛げのない」ほど完璧だったお茶の味を思い出し、後悔のあまり酒に溺れていると聞く。
一方、私は。
カルタス王宮のテラスで、新しい生徒たちの所作を見守りながら、最高級の茶葉の香りを楽しんでいた。
「リディアーヌ学長、次の講義のお時間です」
従者の言葉に、私は艶やかな黒髪を翻して立ち上がる。
私の背筋は、あの日、雨の中に放り出された時よりもずっと高く、誇り高く伸びていた。
完璧な所作。
完璧な理屈。
そして、誰にも侵せぬ完璧な美学。
一度手放した価値を二度と取り戻せないのが、この世界の唯一の平等。
それを証明し続けることこそが、私の生涯をかけた、最も優雅な「復讐」なのだ。
これにて完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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