海柘榴市と巫女
日本書紀の敏達天皇の章に次のような記述があります。
「佐伯造御室を遣わして、馬子宿禰の供養する善信尼らを呼ばせた。馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して御室に託した。役人はたちまち尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にした」
大王の命令で、仏教を信仰する善信尼達が捕縛されました。市場である海柘榴市で、彼女たちは公衆の面前で鞭打ちの刑に処されたのです。この時、蘇我馬子は大王の命令に抵抗することが出来ませんでした。神道的な世界観のなかで仏教が弾圧された象徴的な事件になります。聖徳太子の物語を創作する上でも重要なターニングポイント。この事件を深く理解する為に、処刑に海柘榴市という場所が選ばれた理由を考えてみたいと思います。
海柘榴市は、大和川の上流に位置する奈良県桜井市金屋にありました。欽明天皇の御世に仏教が伝来されたのもこの地域になります。桜井市には大王の宮があるだけでなく、大神神社という宗教的な権威も存在する古代の都でした。このような立地に日本最古の市場である海柘榴市が誕生したのは理解できるのですが、物語で描写する場合、どのような形態の市場であったのかがなかなかイメージ出来ません。なぜなら、この時代には通貨が無かったからです。
僕は卸売市場で仕事をしていますが、市場には特殊な機能がありました。それは相場の決定機能になります。価格というのは相場の物差しであり、一元化された通貨という物差しがあるからこそ、相場を生み出すことが出来ます。古代においては、絹の織物や鉄の塊、米や塩が物品貨幣として流通していましたが、それでも初期の市場がどのようなシステムだったのかをイメージするのは難しい。先に挙げた物品貨幣は、権力者たちが管理する財なので一般市民が手軽に扱えるものではありません。ヒントは歌垣にありました。
海柘榴市は、歌垣が開かれていたことが万葉集に描かれています。歌垣とは、若い男女が集まり即興で歌を詠みあう場になります。文字が無かった古代において、歌や言葉には呪力あると信じられていました。これを言霊と言います。歌垣では、現代的な五七五七七といった定型化された和歌を、すまし顔で詠んではいなかった。求愛の情を、露骨に卑猥にエネルギーの塊として相手にぶつける格闘だったのではないでしょうか。歌の上手さこそが性的な魅力だったのです。この歌垣によってカップルが誕生しました。
では、この海柘榴市での歌垣の開催時期ですが、常日頃から行われていたのではなくパターンがあったと考えます。ヒントは善信尼の鞭打ちの処刑が行われた時期で、三月でした。これは旧暦の三月なので、現代に置き換えれば四月から五月の田植えが始まる前のタイミングに相当します。実は歌垣によって男女のカップルが誕生すると、そこかしこの物陰で性的な行為が繰り広げられました。これは乱交というよりも、大地に種を蒔く農耕の行為と一緒で、五穀豊穣を祈るための予祝の儀式でした。この歌垣という祭りに参加するためのステージが、海柘榴市だったと考えます。
歌垣のタイミングは、もう一つあったと考えます。晩秋に行われる新嘗祭になります。新嘗祭は、冬至という最も太陽の力が弱まる時期に開催されました。収穫祭でもあるこの祭りは、収穫を祝うという側面もありますが、どちらかというと地方豪族が王権のもとに集まり、忠誠を確認する「政治集会」の意味合いがとても強かった。地方豪族は、神の代行者である大王の元に供物を届けます。半端な量ではありません。船や荷車に載せられた大量の供物が都に集まるのです。米、塩、鉄、絹織物、鳥獣、魚介類、これら供物を再分配する場が海柘榴市だったのではないでしょうか。
このような考察から、海柘榴市での市場の開催は春と晩秋に行われたと考えます。歌垣も同時開催で、海柘榴市は盛大なお祭り状態だったのではないでしょうか。この人が集まるなかでの善信尼の公開処刑は、メディアとして大きな機能を果たしたと考えます。
ところで、この仮説を更に深堀りしていくと、当時の出産は祭りによってコントロールされていたことが推測されます。春の歌垣によって受胎した子供は、晩秋に誕生して農閑期に子供を育てることが出来ます。晩秋に受胎した子供は、収穫前の夏に誕生します。しかも、村内で同じタイミングで次々と子供が生まれるのです。このような農耕にリンクした性交と出産というパターンの中で生まれたのが産屋になります。
古代において出産は血が流れるので、普段の住居とは別に産屋が用意されました。この産屋に妊婦が集められ、出産に関して知識のある女性がケアをします。これは現代でいうところの病院に相当し、男性は入ることが出来ません。
また、血に関して「穢れ」という概念があったことが知られていますが、これは古事記や日本書紀が成立した頃に、大陸から輸入された概念だと、僕は考えています。弥生時代や古墳時代に生きた人々にとって、女性が出産時に流す血は、自然界のコントロールを超えた爆発的で生々しい超常現象そのもの。しかも、血塗られた赤子を現世に引きずり出す行為は、常に死と隣り合わせでした。
このような出産の現場では、役割分担が為されていたと考えます。経験豊富な産婆は、実際に赤子を取り上げ、へその緒や胎盤を処理しました。これは現実世界での役割になります。それとは別に、産婦が痛みに苦しみ意識が混濁していくなか、その魂を現世に必死につなぎ留める役割があったと考えます。それが巫女でした。
産屋は「あの世」との境界線であり、出産は宗教的な儀式でした。現代とは違い、古代における出産は「降霊術」なのです。 古代人にとって、赤ん坊はこの世の存在ではなく、「あの世」からやってくる霊魂。その霊魂を母親の胎内を通じてこちらの世界へ引っ張り出し、肉体に定着させる行為において、巫女の存在は極めて重要でした。
この産屋によって、巫女を中心とした女性だけのコミュニティーが一族の中で形成されていたと考えます。その存在感は、男性首長でも逆らえない影響力があったのではないでしょうか。欽明天皇の娘に、後の推古天皇になる額田部皇女と、聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女がいます。この二人の名前に冠されている額田部と穴穂部は、過去の大王の宮が置かれた場所になります。つまり、大王家の直轄地。
古墳時代は、妃を後宮に隔離するような制度はまだありません。大王の子供たちは、大王家の直轄地を管理するための責任者としてそれぞれの宮で生活していたと考えます。額田部皇女と穴穂部間人皇女は、そうした宮を統治する責任者でもあり、大王の后でもあり、巫女だったと考えます。妻問婚だった当時の風習では、夫婦は一緒に生活をしません。大王といえども、皇后が護る宮に度々訪問していたのではないでしょうか。
まとめになりますが、古代において巫女は、大王でも制御できない大きな権威を持っていたと考えます。出産を通じて生死を司る巫女は、民からの信頼も厚く、巫女を妻にすることで大王は権威を担保していたと考えます。そのような世界観の中で、疫病というパンでミックが国を襲いました。そこで登場するのが海柘榴市で鞭打ちの刑に処された善信尼になります。日本において最初の出家者が女性だったのは必然だったと考えます。なぜなら、善信尼は仏教思想を背景にして誕生した巫女だったからです。




