ヒメミコ
聖徳太子が行ったとされる業績に、冠位十二階と十七条憲法があります。他にも、遣隋使も有名でした。西暦607年に小野妹子を隋に遣わして、隋帝に国書を渡します。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」
とても有名な一文ですね。煬帝は立腹したそうですが、当時は高句麗と対立していた渦中で、倭国に構っている余裕がありませんでした。その後、隋が滅亡するまで何度か遣隋使が編成されそうです。ところで、日本書紀には記されていない遣隋使の記録が隋書に残されていました。時期は西暦600年になります。先の「日出づる処の天子」の国書が交わされた渡航より7年前になります。この第一回遣隋使で、隋帝と使者が交わした内容が隋書に記されていました。
「開皇二十年に、大王又は天王と号する倭王アメタリシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます」
要約します。隋帝が使者に倭国の風俗を尋ねました。使者は答えます。兄である倭王アメタリシヒコは、夜が明けないうちに座して政を聴きました。日が昇れば、政務を弟に委ねます。
使者の言葉を聞いた隋帝が答えました。
「それは甚だ不合理であるから改めるように」
宗主国である隋が倭国に対して国家運営のアドバイスをしたわけですが、僕なりに注目ポイントが二点あります。一つ目は、倭王アメタリシヒコは誰なのか? であります。
日本書記によると、593年に推古天皇が擁立されました。本来であれば推古天皇を紹介すべきところを、倭王アメタリシヒコになっています。更に兄と表記されているので、性別は男でした。古来から、この資料に関しては様々な考察があったようです。実は聖徳太子が実質的な王だった……とか。この謎を解くカギは、中国大陸に根付く強固な「男尊女卑思想」だったと考えます。
推古天皇の名代として使者が送られたわけですが、使者も命がけです。何としても隋帝に国書を手渡し、倭国との国交の道を開かなければなりません。しかし、中国大陸は男尊女卑の思想が強いので、女性の大王では認められない……と考えたのではないでしょうか。だから、成功させるために嘘をついたと思います。
二つ目の注目ポイントは、兄と弟の役割になります。僕なりの解釈になりますが、巫女でもあった推古天皇は、夜明け前に神からの神託を受けていたのだと思います。日が昇ると、摂政的地位であった厩戸皇子は、朝廷に役人を集めました。米の備蓄量やその分配について、また地方から上がってくる訴えに耳を傾け、国家運営を行っていたのだと考えます。
巫女が神託を受けて、実務を弟が行う。実は、この統治方法は卑弥呼も同じでした。ヤマト王権の政治とは、卑弥呼の時代から推古天皇に至るまで、巫女と大王が連携し合いながら統治してきたと考えます。では、なぜ、巫女が必要だったのでしょうか?
縄文時代後期、それまで温暖だった気候が寒冷化へとシフトしました。これを弥生海退といいます。青森で栄えていた三内丸山遺跡をはじめとして、各地の縄文文明が衰退していきました。このタイミングで、九州北部に米の稲作技術をもった大陸由来の人々が定住し、日本各地に米が伝播していきます。この縄文時代から弥生時代の移行で、思想的な構造的変化が起きました。縄文人は狩猟採取なので、食べたいときに食べました。原因と結果にタイムラグがありません。ところが稲作は、春に種まきをして秋に実を収穫します。原因と結果に半年間のタイムラグがありました。このことによって「時間」という概念が発達します。
時間という概念は、一年間という暦を作りました。因みに暦の神様は「ツクヨミ」になります。古代は月の満ち欠けによって時間を管理したからです。米の収量を増加させるために、田植え等の稲作の作業を時間によって管理しました。これによって食料自給量が改善されていき、弥生時代の人口は増加していきました。
ところが、時間を扱うようになった弥生人でしたが、稲作には大きな天敵がいたのです。それが天候でした。日照りが続くと、米が育ちません。長雨が続くと、洪水が起きて田畑が荒らされます。人間の力ではどうすることもできません。弥生人は時間の概念を使って、未来を予測しました。米を貯蔵すれば未来のリスクに備えることが出来ます。ここから「所有」という概念も誕生しました。
「所有」という概念は、何かしらの問題が生じたとしても、回避できる保険になります。折角の努力が無駄にならない知恵でした。ところが、この所有という概念は、人間の心に「執着」という概念も誕生させてしまいます。
――作業に対する対価は支払われるべき。
この強固な執着の心は、キリスト教的には「原罪」に相当すると考えますが、説明は割愛します。
弥生時代の首長は、人々に農作業をさせる対価として、秋にはその実りを分け与えなければなりません。無かったでは信頼を失います。ここで、「神に祈る」という宗教的な儀式が誕生し、体系化されていきました。この宗教的な儀式で重要な人物が、巫女になります。
巫女の系譜は、縄文時代に遡ると考えます。土偶の多くは妊娠した女性をモチーフにしていました。子供を生むという女性特有の機能に神聖を感じていたのだと思います。また、日本海側の古い伝承に次のようなものがありました。
――海洋民である男神が、愛しい女神に会いたいために山を登りました。ところが、男神は女神に追い返されてしまいます。なぜなら、山の上は死後の世界で、女神は既に死んでいたからです。生きている男神の入山を、女神は拒んだのでした。
縄文時代の信仰は山岳信仰でした。因みに、飛鳥時代にも役の行者が修験道を興しましたが、あれとは違います。山伏は山に登りますが、これは修行であり「登拝」という山岳信仰になります。縄文時代の山岳信仰は、「遥拝」といって山に登りません。
縄文時代は、山の上に女神が住んでいると考えられていました。女神は、生と死を司っています。人間が死ぬと、その魂が山の上に登っていくと考えられていました。また山は、水や森、獣を生み出します。縄文時代の人々の生活の場は海辺でした。この、海と山とという二点間の往復運動が、縄文時代の世界観だったようです。
このような縄文的思想を系譜にして、弥生時代の宗教観はアップデートしました。天候を操るには、山の女神と交信ができる巫女の存在が必要だったと考えます。巫女の神託は絶対でした。ところが、古墳時代になると、この巫女の立場に変化が現れます。絶対的な巫女に比肩する、大王という存在が誕生しました。
次回は、巫女と大王の関係について考察を述べます。前回、黄泉の国について述べると宣言しましたが、前置きが長くなってしまいました。大王の誕生には、黄泉の国が大きく関わっています。




