AIは海に行きたがるか
前回は、歴史を俯瞰しながら「情報」について、僕なりの解釈を述べた。要約すると、情報とは、他者に実態を伝達する為の手段になる。現代において、この手段であった情報が、価値あるものとして取引された。例えば、音楽データやYouTubeといったコンテンツは、本来は情報の集まりでしかないのに、取引の対象として売買される。僕が書いている小説も、もしヒットすれば大きな収入になるだろう。この情報の価値について、今回は考えてみたい。
人智を超越したようにみえるAIだが、もしかすると人間のような意志を持つのではないのか――そのような憶測のネット記事が、時々散見される。手塚治虫の鉄腕アトムは、まるで人間のような意志があるロボットとして描かれた。SFにおいても、アンドロイドと人間が恋に落ちる物語がある。AIは、意志を持つのだろうか? この問題を考える時、意志について定義する必要がある。ネットを参照する。
――意志とは、目標を定めてそれを成し遂げようとする、積極的で強い心の働きのこと。
「目標を定めてそれを成し遂げようとする」の部分については、AIは該当する。AIに、何かしらの指示を出せば、何かしらの回答を提示してくれるから。問題は、「積極的で強い心」の部分が、該当するのかどうか……になる。仮にAIが意志を持つと考えた場合、「心」は、0と1からなる計算式で表すことが出来ることになる。本当だろうか?
車を走らせる場合、運転手が必要になる。現代では、運転手もAIで代用できるが、闇雲に走らせるわけにはいかない。「海に行く」といった目標設定が必要になる。意志の定義と比較すると、「車で海に行く」という具体的な行為はAIに任せることが出来る。しかし、「なぜ、海に行きたいのか?」という動機については、計算が難しそう。なぜなら、これは理屈ではなく、「海に行きたい」という自然に湧き上がる欲望だから。整理すると「車で海に行く」という現象には、指示する「欲望」と、行為や道具としての「車」という関係性を見ることが出来る。
心を考える為に、古代のアニミズム信仰を参照してみたい。アニミズムとは、生物や無機物を問わず、自然界のあらゆるものに霊魂や精霊が宿っているとする考え方になる。また日本の古代の信仰に、「八百万の神」がある。山、川、木、石などの自然物、風や雷といった自然現象、家の中の竈やトイレ、さらには概念や出来事にまで神が宿るとする考え方。二つはとてもよく似ていて、違うのはその核になる。アニミズム信仰では「霊魂」や「精霊」といい、八百万の神では「神」と呼ぶ。これらは何が違うのだろうか?
アニミズム信仰の形態の一つに、祖霊信仰がある。亡くなったご先祖様を、祀る信仰だ。古代豪族の信仰は、祖霊信仰だった。例えば、僕が勉強してきた物部氏の祖霊神は、ニギハヤヒになる。物部という一族は、ニギハヤヒを祀ることで一族が結束していた。また大王家が祀る神は、アマテラスになる。日本の神話には数多くの神様が登場するが、これらの神様には序列がある。例えば、物部は大王家の盾として活躍したが、それは神武東征において、ニギハヤヒがイワレビコに従ったから。つまり、ニギハヤヒよりも、イワレビコの遠い先祖であるアマテラスの方が格が上という図式が出来あがる。
大和王権は、多くの豪族を従えていた。その祖霊神はアマテラス。その神威を得て、大王が国家を運営した。ここに、決定者である大王と、農耕をはじめ様々な職能で国家の為に尽くす民衆という関係性が見えてくるが、これは先ほどのAIと意志の関係に似ている。
アニミズム信仰において、万物には霊魂や精霊が宿っていると考えた。この霊魂や精霊は、「心」に置き換えることが出来る。古代の国家において豪族や国は、神を敬った。構造的に、二つは同じ。心、霊魂、精霊、神といったこれらの言葉に共通するのは、目には見えないけれど存在していると信じられていることになる。ハラリの著作「サピエンス全史」では、これを認知革命と呼んだ。
なろう系に登場する神様は、チート能力を授けてくれるし、全知全能だったりする。しかし、アニミズム信仰における精霊は何もしない。ただそこにいる、お隣さんだったりする。農耕文化が発展していくと、新嘗祭をはじめ五穀豊穣を神に祈るようになった。この人々の挙動から、祈りに応えてくれる恵みの神様、天災の根源である荒ぶる神様といった後付けの概念が肥大化していったと考える。
心は、人間が活動する上で意志の決定を行う「核」になる。同じように、神は、豪族や国が活動する上で意志の決定を行う「核」であり、制度的には神の意志を代行する王が存在した。これは、僕が考える古代観になる。また、神の意志を伝える者として、シャーマンも活躍していた。これは日本独自の信仰ではなくて、世界的にも古代は同じようなものだったと考える。その後、神を従える神を人間が創造し、一神教へと発展していった――と僕は考える。
前回、メソポタミア文明で文字が誕生し、情報社会へと発展していったという話をした。最後の方で、「情報に自分の権利を任せない。情報は、道具として使う」と結論する。ところで、メソポタミア文明で誕生した文字は、全く違う使われ方もした。それが「ギルガメシュ叙事詩」になる。世界最古の物語であり、旧約聖書で描かれる箱舟の物語も、ここでは登場する。
古代のメソポタミアの人々は、目には見えない神様を物語で表現しようとした。同じように、現代における文学作品も目に見えない人間の心を表現するものだと考える。ただ、目に見えないだけに描き方は難しい。
例えば「怖い」という言葉を、どれだけ書き連ねても怖さは伝わらない。――仮に、ノートいっぱいに「怖い」が書きなぐられていたら、それはそれで怖いが――「怖い」を伝えるためには、物語を用意する必要がある。これが、作家の仕事だと考えた。楽しい、悲しい、怖い、腹が立つ、そういった感情を想起させる物語を描いていきたい。その作品が、真に迫る芸術作品として昇華し、読者の感情を揺さぶったのなら、それは価値のある情報なのだろう。




