大王家と豪族
前回は、丁未の乱の背景について考察を述べました。大王家を護る二つの氏族、蘇我氏と物部氏が衝突したわけですが、今回はそうした氏族が誕生した経緯について考えてみたい。時代は、弥生時代にまで遡ります。
松本武彦著作「古墳時代の歴史」を読みましたが、この書籍にも大きな衝撃を受けました。内容は、古墳を建造を年代順に追いかけていく編年体になります。日本中に16万基はあるとされる古墳ですが、年代順に比較していくことで見える世界がありました。僕の驚きポイントを一言で述べます。
――古墳の始まりは東日本だった。
日本の古代史は、古事記、日本書紀をベースにしています。ヤマト王権の萌芽は、奈良盆地の南西部で誕生しました。纏向にある箸墓古墳は、特に有名です。ところが、古墳の古さだけで見ていくと、紀元前に関東で個別の墳丘墓が誕生していたのです。初期の形状は、方形周溝墓でしたが、紀元後二世紀になると方形に通路が設けられ、前方後方墳の形状に発展していきました。そうした古墳が濃尾平野や淡海に伝播していきます。纏向の古墳群が誕生するのは、三世紀後半になってからでした。ところで、古墳が誕生する以前は集合墓地でした。個別に埋葬されることは無かったのです。では、なぜ古墳が誕生したのでしょうか?
弥生時代は、倭国大乱と中国の歴史書が記したように、富を奪い合う戦争が起こりました。ところが、そうした戦乱の痕跡は日本海側に集中しており、近畿から東にかけては見られないそうです。この事実から類推するに、戦乱を逃げ延びた人々は、新天地を求めて東へ東へと移動したのではないでしょうか。東日本で生活していた人々は、まだ縄文時代の生活をしていたと思われます。そうした中に、農耕によって生計をたてる集団が現れました。古墳はそうした僻地に逃れた人々のシンボルとして機能したようです。
また、当時の古墳の発掘から、土器が交易財として流通されていた様子が伺えます。関東で製作された土器が、淡海やヤマトに運ばれていました。古墳が作られた場所は流通の拠点になり、マチとして発展したようです。土を盛り上げた古墳は、広告塔として活躍したのではないでしょうか。そうしたマチとしての機能が最も顕著だったのが、奈良の纏向でした。西は瀬戸内から、北は日本海側から、東は関東方面まで、各地の財がヤマトに集まっています。海柘榴市は、日本最古の市場として有名でした。
古墳によって、祖先を神として祀る風習。経済的な流通が誕生し、マチが形成され始めた。このような社会的変化によって、各地に氏族が誕生したと考えます。最も力を付けた氏族は豪族へとランクアップし、大王家をサポートするようになりました。では、大王家とは、何でしょうか?
遺跡の研究から見る限り、大王家の萌芽は奈良の纏向で誕生したことは間違いないようです。時期は、三世紀後半。弥生時代の遺跡からは銅鐸が発掘されますが、古墳時代以降は発掘されません。代わりに、三角縁神獣鏡を始めとする呪具の埋葬が中心になりました。三角縁神獣鏡のレリーフは、神仙である西王母と東王父、それに霊獣が描かれています。これは道教的世界観でした。
三世紀の中国は、魏、呉、蜀が誕生する三国志の時代でした。この三国時代を生み出した切っ掛けは、二世紀後半に誕生した黄巾党の鎮圧になります。黄巾党とは、道教の一派でした。同じ時期に、蜀の辺りでは五斗米道という道教集団も誕生しています。
五斗米道の名は、信者に米の栽培を奨励し、五斗の米を寄進させたことに由来しています。漢中で大きな勢力として拡大しましたが、曹操によって迫害を受け瓦解していきました。僕なりの考察になりますが、この五斗米道と大王家は関係があるのではないかと考えています。
五斗米道の教義は、病気の治療が基本でした。病気は、神がヒトの罪悪に対して懲罰を与えるためと説いていたそうです。ここで思い出されるのが、崇神天皇の御世に起きた疫病の流行でした。この災厄によって民衆の半数が死に至ったとされます。この災厄の渦中、崇神天皇は出雲の神である大物主から神託を授かりました。
――私をよく祀れば天下は平穏になるだろう。
この神託に従い、大神神社が創建されました。ヤマトにおいて大王家が各豪族を従える切っ掛けになったのが、この疫病に対する宗教的解決だったのではないでしょうか。五斗米道と大王家の関係を、僕は立証することは出来ません。しかし、三角縁神獣鏡の存在から、大王家が道教世界に大きく影響を受けていたことは揺るぎない事実になります。これ以降、日本各地に前方後円墳が築かれていきました。
聖徳太子の物語を描くにあたって、このような背景を整理するのはとても重要になります。「真実か?」と、問われると困ってしまいますが、僕が描くのは歴史書ではなくて、物語になります。今後とも、真に受けずにエンタメとして楽しんでいただけたらと思います。




