丁未の乱の背景
古墳時代末期に起きた丁未の乱は、大臣である蘇我馬子の政権連合軍と、大連である物部守屋が対立した戦争になります。教科書的には、崇仏派と廃仏派と表現されているので、仏教と神道が対立する宗教戦争的なイメージで語られたりします。聖徳太子の物語を描く場合、この丁未の乱をどのように理解するのかということは、物語の面白さに影響します。少し深堀してみたい。
溝口睦子著作「アマテラスの誕生」を読みましたが、僕にとって衝撃の一書でした。要約すると、記紀神話は、造化三神であるアメノミナカヌシノカミ、タカミムスヒ、カミムスヒの三神の神話と、イザナギ・イザナミを源流とするアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神の神話が混ざり合って成立しているとします。大王家はタカミムスヒを信奉していましたが、記紀の成立によって、タカミムスヒがアマテラスに習合されたというのが論点になります。
造化三神系は大陸由来の信仰で、大王家、大伴氏、物部氏を中心にして祀られていました。対して、イザナギ・イザナミから始まる神話は弥生時代から日本に土着していた信仰になります。つまり、本来は別々の伝承だった。記紀成立の折に、大王家の主神であるタカミムスヒがアマテラスに習合されたのは、大王家だけで祀られていたタカミムスヒでは、民衆の認知度が低いからです。国家統治を考えるとき、民衆にタカミムスヒを信奉させるよりも、誰もが知っているアマテラスに習合させた方がコストが低かった……という考察になります。ところで、この論点で考えるとき一つの疑問点が浮かびました。
――継体天皇が信仰していた神は何だったのだろうか?
応神天皇五世孫という血統を信じたとしても、淡海の支配者であった男大迹王の信仰がタカミムスヒ系であったかは分かりません。いや、アマテラス系の信仰だった可能性が大きいのではないでしょうか。なぜなら、信仰の対象は、民衆の掌握と直結しているからです。
2025年11月に、奈良県御所市にある出屋敷北十三遺跡から、弥生時代の方形周溝墓が135基もあったと発表されました。この葛城周辺の地域には、大国主系の神が祀られた神社が数多くあります。つまり、弥生時代からヤマトの国は、出雲由来の信仰を持つ人々が数多く生活していたことが遺跡の発掘から立証されたことになります。このヤマトの国に後からやってきたのが、タカミムスヒ系の神を信仰する大王家の一族でした。
ヤマトで地位を確立した大王家は、金剛山地を越えたカワチに版図を広げます。そのカワチで王族内の内紛を繰り返し、跡継ぎがいなくなりました。そうして担ぎ出されたのが、継体天皇になります。大王家を護る、大伴氏や物部氏はタカミムスヒ、ニギハヤヒ系の大陸由来の神を信奉していました。ところが、新しい大王がアマテラス系であれば、そこに大きな確執が生まれたのではないでしょうか。更に、蘇我氏は仏教を信奉しています。
信奉する神の違いは、祭祀を中心とした政治に直接影響します。物部氏は、軍事と祭祀を担う保守勢力。大王家は、民衆から絶大な支持をうける出雲系。蘇我氏は、外交と新技術に強い仏教受容の推進者派。「神道 vs 仏教」という二項対立では語れない、複雑な対立構造があったのではないでしょうか。
丁未の乱以後、タカミムスヒ系の勢力が排除されました。アマテラス系の信仰と仏教が残ります。蘇我馬子は元興寺を建設して、仏教の拡大によって自身の影響力を強めました。崇峻天皇を暗殺するという暴挙にも出ます。戦後のこのような蘇我馬子の専横に対して、手を打ったのが厩戸皇子だったと考えます。アマテラス系の信仰と仏教を習合させたうえで、大王中心の律令国家を目指しました。
厩戸皇子のバランス感覚は、三権分立として機能したと考えます。宗教的な権威の推古天皇、政治的実務を行う厩戸皇子、国庫を預かる蘇我馬子。具体的な政治の中身についてはもう少し勉強が必要ですが、物語を創作する上での世界観は、まとまったような気がします。




