参考までに
以前に、聖徳太子の物語はアップしない……と言っていたのですが、その気持ちは今も変わっていいないのですが、現在の途中経過だけご紹介します。冒頭の触りの部分になります。ただ、今後変更するかもしれません。
第一章:誕生(五七四)
プロローグ
雨が降り始めた。乾いた土に黒い斑点が浮かんだかと思うと、瞬く間に辺り一面が黒く泥濘んでいく。目の前の巨大な墳墓を見遣る。天すらもこの別れを嘆いているのかと思うと、胸の奥が微かにざわついた。
角髪を結った若い従者が、慌てた様子で駆け寄り、我の頭上に衣笠を差し掛ける。
「大人、激しい雨にございます。どうか衣笠を……」
「うむ」
上宮皇子の葬りの儀が終わった後も、参列した多くの者が泣き崩れ、足を止めて帰ろうとしなかった。ところが、雨が強まるにつれ、皆が足早に去っていく。
――帰れ。さっさと帰れ。
心のなかで浅ましい奴らを追い払う。我は独りになりたかった。額を伝う雨粒が睫毛を濡らし、目に滲みる。固く瞼を閉じると、若かりし頃のあの男の姿が脳裏に蘇った。
あの男はいつも澄ました顔をしていた。誰からも愛され、誰にでも慈悲深く接した。先ほどまで泣いていた奴らも、あの男の甘い言葉に誑かされただけのことだ。
だが、あいつが聖人という仮面を被っていられたのも、この我がいたからだ。あの男の本当の顔を知る者など、他にはいやしない。声を殺して泣き崩れるあの体を抱きしめたのも、泥に塗れそうなあいつを救い上げてやったのも、全て我なのだ。
――厩戸。
冷たい雨粒が首筋を伝い落ちる。たまらず、我の首に蛇のように巻き付く忌まわしい痣を掻き毟った。ひどく痒い。力の限りに爪を立てると皮膚が裂けた。爪先を見ると、赤い血が滲んでいる。こんな汚らわしい血など、雨と共に全て流れ去ってしまえばいい。
第一節 産屋
森に囲まれた山麓の開けた一角に、真新しい白木の匂いを残した高床式の産屋があった。中から微かに、くぐもったうめき声が漏れ聞こえてくる。
産屋の四方には篝火台が据えられ、髪を結い上げていない幼い巫女たちが、両手で抱えた松明を持って駆け寄っていく。武骨な鉄の籠に収められた肥松へと火を移した。初めは頼りなかった炎が次第に大きく育ち、赤々とした火の粉が舞い上がった。
白い絹衣に身を包んだ額田部皇女は、火の番をする童巫女たちを手招きした。集まってきた幼い顔を見下ろし、静かに、しかし威圧感を持って目を細める。
「降霊の儀が終わるまでは、絶対に火を絶やしてはいけません」
「は、はい。大后様」
「辺りには悪霊が満ちています。清浄なる火によってそれを退けるのが、そなたたち童の務め」
見えない何かに怯えるように辺りを窺う少女たちを、額田部皇女は鋭い視線で見つめる。
「魂は山の上から降りてきます。悪霊に阻害されては、人を成さない。……頼みましたよ」
「はいっ」
「では、持ち場へ」
散っていく童巫女たちを見送り、額田部皇女は振り返って大和平野を見遣った。葛城山地に沈んでいくはずの太陽は厚い雲に遮られている。平野一面に広がる水田の稲穂は首を垂れ収穫の時を待っていたが、光を奪われたせいで黄金の輝きはない。やがて、湿った風が泥臭い土の匂いを運んできた。額田部皇女の額に、冷たい雨粒が一つ、落ちる。
――悪霊の勢いが強すぎる。
思わず歯ぎしりをした。背後の産屋では、今まさに物部守屋の妹である太媛が命がけの戦いをしている。間もなく、夫である蘇我馬子も到着するはずだ。大連(物部)と大臣(蘇我)——額田部皇女の夫である訳語田大王を支える、両袖の家を結ぶ赤子である。この出産だけは、絶対に失敗は許されない。
彼女の心に迷いはなかった。これまで幾度となく執り行って来た儀式であるはずなのに、今宵の重圧は一歩ごとに大地を踏み抜いてしまいそうなほどに重い。出産とは、母体が大量の血を流し穢れに晒される行為。その穢れの淵から赤子を掬い上げ清らかな魂を定着させるためには、強固な結界と儀式が不可欠なのだ。群がり来る悪霊から母子を護り抜く……。額田部皇女は決意と共に、傍らに置いていた梓弓を手に取った。
「音をお願いします」
童巫女たちが火の番をする中、年長の巫女たちが肩から提げた締太鼓を、木のばちで打ち鳴らし始めた。「ドンッ、ドンッ」という腹の底に響くような重い音が、雨の降る山麓にこだまする。それは、産屋へ降りてくる魂を導くための、擬似的な心音だった。
太鼓の音に合わせて、鈴を手にした巫女が手を上下に振った。「シャン、シャン」という鈴の音が、結界内を清浄に保ち続ける。その繰り返される土着的な拍子の渦の中心で、額田部皇女が動いた。
彼女は大地に向かって力強く踏みしめると、クルンと舞った。白い絹衣が広がる。円を描くようにして歩みを進めながら、周囲に集まってきた悪霊を外へ外へと追い祓う。太鼓の音が激しさを増す中、額田部皇女が祝詞を歌い始めた。
「掛けまくも畏き、天地の初めより命を結びたまふ産霊の大神よ。今ここに降り立ちて、この清浄なる火の囲みを盤石に固めたまへ」
額田部皇女の朗々とした歌声が、夜の静寂を切り裂いて響き渡る。周囲を取り囲む巫女たちは太鼓を打ち鳴らし、「払へたまへ、清めたまへ」と低い声で呪歌を唱和した。
ところが、巫女の儀式に反発するようにして風が起こった。大粒の雨雫がボタボタと降り始める。額田部皇女はふと足を止めた。手にした梓弓を天に向けて構える。そして、ギリリと弦を引き絞り、鋭く指を離した。
――ビィンッ!
張り詰めた弦が弾ける。悪霊の蠢きが怯み、湿った風が一瞬だけ凪ぐ。額田部皇女は一切の隙を見せずに、再び大地を踏み鳴らして舞い続けた。
「高き山より下り来る、新しき魂よ。迷ふことなき炎の標、響む太鼓の音に導かれ、清き器に宿りたまへ。母なる身の痛み、血の穢れを乗り越えて、健やかに、猛く息吹たまへ。魂よ来い、魂よ定まれ」
雨風が段々と強くなる。巫女たちは悲壮な表情で拍子を合わせた。「払へたまへ、清めたまへ」と唱和を繰り返していく。
繰り返される祝詞が十度目を終えた頃、額田部皇女の集中力がいつもにも増して高まった。踊りや歌は激しさを増し、彼女に引き上げられるようにして、太鼓の音が弾み始める。刻まれた音は波動となり、産屋を取り巻く結界が大きな心臓のように鼓動を始めた。額田部皇女が踏みしめる足元が泥濘、泥が跳ねる。白かった絹衣は黒く穢れていった。彼女は踊りながら、雨で重く纏わりついたその絹衣を脱ぎ捨てる。白く美しい裸体が、燃え盛る篝火の光によって照らされた。乳房や臀部の豊かな膨らみが、白と黒の明暗で強調される。踊るたびに乳房が揺れた。足を止めて、両手を高く掲げる。梓弓をゆっくりと引き絞った。力を貯める。狙いを定めて、放った。甲高い音が天に向かって一直線に走り、雨が止んだ。
その時、産屋から獣が吼えるような、裂帛の悲鳴が響き渡った。太媛を励ます産婆の声も絶叫に近い。年長の巫女たちが勝負どころを見極める。太鼓の音圧が一段高まった。渦巻く熱狂も一段と高まりを見せる。額田部皇女は、産みの苦しみに共鳴するかのように、顔が歪んだ。
――ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ。
太鼓の音が頂点に達したその刹那、産屋の中から産婆が叫んだ。
「大后様!」
動揺したような叫び声に、額田部皇女は踊りを止めた。それに合わせるようにして太鼓の音が止まる。世界から心音が消えたように、静寂が落ちた。
「止めるな。続けろ!」
彼女の一喝に、再び太鼓が打ち鳴らされる。儀式が進行されたのを確認すると、額田部皇女は産屋に向かって歩き始めた。巫女の一人が、慌てて彼女に新しい絹衣を差し出す。片手で衣を掴むと、無造作に身に纏い、産屋の中へと入っていった。
「どうした」
産屋の中は、むせ返るような血の匂いが充満していた。産婆の一人が、血にまみれた嬰児を抱いている。しかし、様子がおかしい。泣くはずの赤子が、泣いていない。
「へその緒が首に巻かれていて、出産と共に首が締まりま……」
狼狽しながら産婆が説明をしているそばから、額田部皇女はその嬰児を両手で抱き上げる。睨みつけながら、一声叫んだ。
「魂よ、戻れ!」
そう言うなり、赤子の口に自らの口を重ね、神の気を分け与えるようにして強く息を吹き込んだ。産婆を始めとして周りの者が固唾を飲み込んで様子を伺う。嬰児はブルっと震えたかと思うと、か細い声で泣き出した。弱々しいが息を吹き返したのだ。産婆たちが安堵の声を漏らす。
「お前たちよくやった」
労いの言葉を投げかけた後、生まれたばかりの嬰児を見つめる。首の周りが青く痣になっていた。悪霊との駆け引きに僅差で勝ち得たことを理解する。後の処置を産婆に任せた。額田部皇女は横たわっている太媛にも声をかける。
「男子だった。小さな体には、両家の濃い血が脈打っている。大王を支えるために生まれてきた子だ」
彼女の言葉に、太媛は泣きながら頷いた。




