龍と竜
「はーい、起きて〜。朝だよ」
カーテンの隙間から差し込む朝陽と、香ばしいトーストの匂い。そして、耳元で響くユイの弾んだ声に、リュウは重い瞼を持ち上げた。
「……ん、……おはよう、ユイ」
「ほら、起きたらすぐ食べて、すぐ学校行くよ!」
ローテーブルの上には、丁寧にジャムが塗られた食パンと目玉焼きが用意されていた。リュウはまだ寝ぼけている頭を揺らしながら、急いで朝食を胃に収め、ユイが洗ってくれていた学ランに袖を通して家を出た。
ネクロの頽廃的な街並みを、二人の制服姿が静かに通り抜けていく。
「ねえ、リュウくん。噂なんだけどさ、うちの学校に『N3』を倒そうとしてる秘密の集団があるみたい。今日、放課後に会いに行ってみようよ」
「あ、……うん。わかった。けど……多分だけどさ、負けないよ。N3には」
リュウは自分の黒い右腕をそっと見つめながら、オドオドとした口調のまま、しかし確かな事実として呟いた。
(そんなこと、知ってるよ。リュウくん一人だけでも、今の段階で十分に勝算があるくらいは、私の算盤でも計算済みだもん。だけど、気持ちのあり方で強さが変わるなら、もっと強くなれる道を歩いてもらう)
ユイは一瞬だけ足を止め、心の中で冷徹に珠を弾く。
「念には念を、だよ! もしもリュウくんが死んじゃったら、私はどうやってネオシスに行けばいいのさ」
ユイはわざとらしく膨れっ面を作ると、リュウの肩をぽんと小突いた。
「……なるほどな。ユイのためなら、そうするべきか」
リュウは素直に納得したように、小さく頷いた。
キーンコーンカーンコーン――。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、二人は校舎の最上階の奥、噂の『対N3部』が拠点にしているという教室へと向かった。
そこは廃教室の建前だが、引き戸の取っ手は手垢で磨かれ、人の出入りがあるのは一目で分かった。
「ふんっ!」
ユイは何の躊躇もなく、勢いよく扉を開け放った。
室内には、4人の人間が日常的に使っている気配――怪しげな実験器具や、山積みにされた電子機器のジャンクパーツが所狭しと並んでいた。
「おい……何しに来たんですか、部外者が」
部屋の中央、パイプ椅子に踏んぞり返っていた金髪の男が、不機嫌そうに立ち上がった。その頭部からは、側頭部を突き破るようにして、禍々しい二本の「ツノ」が生えている。
「N3を倒すのを、手伝ってもらいに――」
「帰ってもらえます?」
男――タツは、ユイの言葉を最後まで聞くこともせず、力ずくで彼女を部屋の外へどかそうと、乱暴に手を伸ばした。
ガシィィン!!
空気が凍るような速度で、リュウの右手がタツの手首を完全に、そして寸分の狂いもなく掴み取っていた。ユイの身体には、指一本触れさせない。
「あ、……っ」
人と目を合わせるのが苦手なリュウは、視線を斜め下に落としたまま、ただ無言でタツの手首を握りつぶさんばかりの力で固定している。完璧な紳士スタイルでの完全な拒絶。
『いいんじゃないですか? 話くらい聞いてやってもさ、リーダー』
部屋の奥から、くぐもった機械音声が響いた。声の主は、顔全体を重厚なガスマスクで覆った、ドクと呼ばれる人物だ。
「彼、相当に強いですよ。仲間に入れても、いや――彼女の言う通り、手伝う形にするのも得策だと思いますよぉ?」
窓際で白衣を羽織った眼鏡の男、ルイがフラスコを揺らしながら薄気味悪い笑みを浮かべる。
「あつっ!?」
さらにその横で、カップラーメンを啜っていた小柄な少女、メイが、麺を口に運ぶ瞬間に箸を滑らせ、頬に熱いスープを命中させていた。
「ま、まあ、いいんじゃないでしゅか……っ、痛っ、舌噛んだ……」
メイは涙目で転びそうになりながらも、なんとか親指を立てる。
「……チッ。満場一致らしいわ」
タツは、掴まれていた腕を忌々しげに無理やり振り払った。手首には真っ赤な手の跡が刻まれており、タツの顔に明らかな不快感が走る。
痛烈な握力。そして、自分と一切目を合わせようとしない、リュウのおどおどとした態度。それがタツには、酷く調子に乗っているように見えた。
「名前は?」
「私はユイ! よろしくね!」
「あ、……あ、……リュウ、です」
「タツだ。……へえ、いい右腕してるな龍だからって、ちょっと調子乗ってんの?」
タツは手首をさすりながら、苛立ちを隠さずに睨みつける。リュウは気まずそうに、しかし純粋な疑問として、搾り出すように言葉を返した。
「でも、タツさんも……ツノが生えてるし、同じ龍(竜)でしょ……?」
ピキッ、とタツの脳内で何かが切れる音がした。
人種(因子の格)として、「古竜」の遺伝子を持つタツたち竜種は、本物の幻想種である「龍」に対して、根深い劣等感を抱いている。リュウに悪気は一切なかったが、タツからすれば、上から目線で「お前も俺と同じだろ」と煽られたようにしか聞こえなかった。
「――同じなわけねぇだろ……っ!!」
『あらま。地雷踏んだね、転校生』
ドクが、楽しそうに首を振る。
「舐めてんだろ? 戦えよ。俺も、強さには自信があってな……!」
『やめとけって、タツ』
「器具が壊れるんで、外でやってもらえます?」
ルイが迷惑そうに廊下を指差すと、タツは「邪魔だとよ」と言い放ち、警告代わりにリュウの腹を軽く蹴り飛ばした。
ずざざっと廊下へ弾き出されるリュウ。
埃の舞う廊下で、二人は静かに見つめ合った。
「……何ですか」
「――『根絶灼火』」
タツが低く呟いた瞬間、彼の右腕が激しい炎に包まれた。タツはその炎の腕を振りかぶり、リュウの顔面へと殴りかかる。
しかし、リュウはその灼熱の拳を、正面から右手でガシッと受け止めた。
「……へえ、止めるか。けどな――これからだよ!」
リュウが握っているタツの手から炎が津波のように伸び、リュウの全身を灼熱の渦で包み込んだ。
「燃え上がれぇぇ!!」
「リュウーーーーッ!!!」
ユイの悲鳴が響き渡る。だが、
「……おや、ちゃんと見てあげてください、ユイさん」
ルイが冷静に言った。
激しい炎と煙の中から現れたのは――空間を覆うように展開された、半透明な結晶の翼だった。炎を完全に遮断し、リュウは無傷で佇んでいる。
「……ごめんなさい。壊すつもりは、なかったんです」
リュウは静かに右腕を下げ、謝罪の言葉を口にした。
完全に防がれた。タツは、その圧倒的な実力差を瞬時に悟る。これ以上は不味い。少しムキになりすぎたと、タツは自身の理性を働かせ、踏みとどまろうとした。
「……チッ。悪いな、少しムキになったわ。和解といこうじゃねぇか」
タツが炎を消し、引き下がろうとした、その瞬間――。
ドクン、と。リュウの右腕が不気味に脈動した。
「……っ、あ、……ああ……っ」
リュウの喉から、獣のような声が漏れる。彼の瞳が鮮血のような赤へと染まり、周囲を覆っていた半透明の翼が、ドス黒く実体のある禍々しい翼へと急変していく。
タツが放った戦火が、リュウの底にある「龍の闘争本能」を完全に呼び覚ましてしまったのだ。せっかく引き下がろうとしたタツの行く手を、リュウの暴走する右腕が阻む。
「……おいおい。悔しくねぇのかよ、……『竜の子』」
コミュ障の面影は消え失せていた。リュウは昏い赤の目でタツを傲然と見下ろし、人差し指をクイ、クイと動かして挑発する。
「……っ、おい。和解の流れだったろ、お前……っ!」
タツの額から冷たい汗が伝う。しかし、ここまで煽られて引けるほど、彼のプライドは安くない。
タツのツノに鮮烈な赤い線が入り、周囲のコンクリートが熱気でひび割れ始めた。「これからは本気だぜ……っ!」
「リュウーーー!! 落ち着いて!!」
「止めないと……っ!」
ルイが焦って一歩を踏み出す。
『けどよ。今止めるのは野暮ってもんだろ』
「わ、私が止めるるぅぅ――っ!?」
案の定、飛び出そうとしたメイが、自分の服の裾を踏んで廊下に滑り込み、派手に転倒した。
「けど……っ!」
「けど……っ!」
ユイとルイの声が、完全に重なった。
「「怪我しますよ!!」」
「――リュウくんが!」と、まだリュウの底底を知らないルイが叫ぶ。
「――タツさんが!」と、リュウの本当のヤバさを知っているユイが叫ぶ。
二つの意味の違う警告が、廊下に虚しく響き渡る。
黒い翼を大きく羽ばたかせ、リュウは獰猛な笑みを浮かべた。
「――死ぬんじゃねぇぞ」
タツは、死線に直面した狂気の笑みで、自身のツノを最大まで発熱させる。
「――そのまま返すわ……ッ!!」
二つの怪物の影が、放課後の廊下で激突する。




