揺るがぬ相棒
(入っちゃった入っちゃった入っちゃった、入っちゃったーーー!!!)
ユイの自宅のソファの上。リュウは、定規で測ったかのように不自然なほど背筋をピンと伸ばし、直立不動の姿勢で座っていた。心臓が、さっきのケイとの死闘よりも激しく警鐘を鳴らしている。
(そりゃ、あんな顔であんなセリフ言われたら、男として入るしかないだろ……! え、待って、やばいって。ユイのやつ『着替えるからちょっと待っててねー』って言点々……!? ってことは、今この同じ空間のすぐ近くで、ユイが服を脱いで着替えてるってことだよな!?)
右腕の龍化、致命的なコミュ障、そして重度の厨二病。それらが災いして、リュウは周囲から隔離されるように生きてきた。同世代の女子と喋る機会など、ほぼゼロに等しい。
そんな彼にとって、このシチュエーションは文字通りの劇薬だった。あまりにも過酷な、そして遅れてきた思春期の嵐が、リュウの純情な肉体と精神を容赦なく蝕んでいく。
「――バァ!!」
その時、奥の部屋のドアから、ひょいとユイが顔を出した。
少し大きめのスウェットにハーフパンツという、完全にオフの、ゆるいダル着姿だ。
「あ、……あ、……っ」
「ふふ、ダル着の私も可愛いでしょー?」
ユイはいたずらっぽく微笑むと、当然のようにリュウのすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離にすとんと腰を下ろした。
(えーっと……私、ここから何しようとしたんだっけ?)
隣に座ったものの、ユイの脳内の算盤もまた、激しく火花を散らしてショートしかけていた。いつもなら相手を手のひらで転がすための最適解が瞬時に弾き出されるはずなのに、なぜかリュウが隣にいるだけで、思考の歯車が全く噛み合わない。
(……何も喋ってこない。どういうことだ?)
リュウはリュウで、隣から漂うシャンプーの甘い匂いに脳を焼かれ、完全にフリーズしていた。
同じソファの上。距離はゼロに等しいのに、二人はお互いに気まずさを誤魔化すように、完全に反対の方向を向いて固まっていた。限界寸前の膠着状態。
「の、……飲み物、入れてくるねっ」
耐えかねたように、ユイが上ずった声で静寂を破り、リビングへと逃げるように立ち上がった。
しばらくして、彼女はマグカップを二つ、両手に持って戻ってくる。
「……はい、リュウくんの分」
「あ、……ありがとう」
緊張で指先を震わせながら、リュウがカップを受け取ろうとした――その瞬間だった。
「あ――っ」
ユイの手が滑り、温かい麦茶がリュウの学ランの胸元へと派手にこぼれた。
「ご、ごめんなさいっ! すぐ拭くね……っ!」
ユイはあらかじめ用意していたティッシュを手に、すぐさまリュウの胸元へと飛び込んだ。
至近距離。ダル着の隙間から伝わる彼女の確かな体温と、濡れた睫毛の奥にある、どこか思い詰めたような上目遣い。ユイは震える指先で、リュウの学ランのボタンを一つ、また一つと、焦りを隠すような手つきで外し始める。
「ねえ、……リュウくん」
ユイは潤んだ瞳でリュウを見つめ、どこか必死な声を絞り出す。
「……私だけのものになってよ。そしたら、私、何だってしてあげるから……っ」
ガシッ、と、頑丈な万力のような力が、ユイの細い手首を優しく、しかし圧倒的な質量で制止した。
「……リュウ、くん……?」
「……ユイ、嘘ついてる」
リュウは真っ赤になった顔を背けることもせず、まっすぐにユイを見つめていた。その瞳は、彼女の完璧な表情の裏側にあるものを、冷徹なまでに捉えている。
「俺、さっき高架下で覚醒してから、なんか……空気の震えとか、君の呼吸の音で、なんとなく分かっちゃうんだ。ユイ、君の身体、めちゃくちゃ震えてる。……俺を騙そうとしてるんじゃなくて、君自身が、今にも泣きそうなくらい、怖がってる」
「な、……に言ってるの、私は別に――」
「嫌なら、しなくていいよ」
リュウは不器用そうに、しかしきっぱりと言い放った。
「俺、コミュ障だけど……女の子にそんな格好悪いことさせたくない。……俺は、どこにも行かないよ」
「っ……ぅ……」
完璧な超知性の仮面が、内側からバキバキと崩壊していく。
リュウの本質を見抜く素朴な瞳から逃げるように、ユイは顔を覆った。彼女の指の隙間から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、ソファのファブリックにシミを作っていく。
リュウは手首を解放し、胸の中で小さく震える彼女の背中を、そっと大きな両腕で包み込んだ。
「本当に……? 嘘じゃない……?」
「うん、本当。絶対にどこにも行かない」
「っ……リュウくんが、どんどん強くなって……私の計算を全部飛び越えて、なんでも一人で出来るようになっちゃったら……っ。私なんか、もう要らなくなっちゃうんじゃないかって思って……っ! 焦って……本当に、ごめんなさい……っ」
リュウは、彼女の背中を優しく叩いた。
「大丈夫だよ。今、俺がこうしてちゃんと他人の前で話せているのも、戦えているのも、全部ユイが引っ張ってくれたおかげだから。ユイを置いていったり、放っておいたりなんて、絶対にしないよ」
「……もう少し、こうしててもいい……?」
「うん。……辛かったな、ユイ」
リュウはそう言って、ユイのサラサラとした髪を、子供をあやすように優しく撫でた。
ユイは彼の胸に顔を埋めたまま、ぽつり、ぽつりと、今まで誰にも話したことのなかった過去を溢し始める。
「あのさ、私……親がいないの。生まれた時から、ずっと一人だった。……でもさ、多分リュウくんの方が、その右腕のせいで、私なんかよりずっと大変な目に遭ってきたんでしょ? なのに、私が『辛い』なんて、言ってもいいのかな……」
「いいよ。ユイはこれまで、その辛さに負けないで、ずっと一人で向き合ってきたんだから。辛いって言って、何が悪いんだよ」
リュウの手が髪を撫でる。
ユイはしばらく静かに涙を流していたが、やがてスッと身体を離した。
そして自らの両頬を――パチン! と気合を入れるように強く叩く。その瞳には、いつもの知的で不敵な光が戻っていた。
「……めんどくさかったね。ごめんごめん! ちょっと甘えたかっただけなんだー。私がお願い叶えてもらったから、次はリュウくんの番だよ!」
「いや、俺の願いなんて、別にないよ。それよりさ、ユイ、体はもう――」
「私はもう甘え終わったの! また甘えたくなったら甘える。叔父さんも言ってたけど、龍の力は基本的に『心』のあり方で出力が変わるらしいからね。これからは、リュウくんのやりたいことをやろうよ!」
「ユイは、もう本当に大丈夫なのか……?」
心配そうに顔を覗き込むリュウに、ユイは不敵な笑みを深めた。
「もー、心配性だなあ。そんなに甘えてる私が可愛かった? ――ねえ?」
言うが早いか、ユイはソファに座るリュウの膝の上に、今度は正面から向かい合う形で、ちょこんと跨るように座った。
「こ、……こ、これで話し続けるの……っ!?」
「いいじゃん。で? 何? 何がしたい? 私への要求、なんでも言ってみてよ」
「……友達が、欲しいかな。……けど、今のこの体制は、ちょっと……っ!」
限界に達したリュウは「わ、わあああ!」と顔を真っ赤にして、ユイの肩を掴んで横に退かそうとした。だが、ソファの狭さと、無意識に力んでしまった龍化の残滓による怪力が災いする。
「きゃっ!?」
ユイの身体が勢いよくくるりと一回転し、ソファの背もたれとの隙間に滑り込むようにして、リュウの膝の上に背中からスポッとハマってしまった。結果として、リュウが後ろからユイを抱きしめるような、完全なバックハグの体勢が完成する。
「……っ、ふーん。本当に可愛いなー、リュウくんは」
ユイの背中越しに、彼女の小さな鼓動が伝わってくる。
その柔らかな安心感と、これまでにない過度な緊張の連続。そしてさっきの戦闘でのエネルギー強制鎮圧による疲労が一気に押し寄せ、リュウの瞼が急激に重くなっていった。
「やばい、……ちょっと、疲れ、た……」
リュウはソファに座ったまま、ユイの背中にコテン、と頭を預けた。
そのまま、かすかに規則正しい寝息が聞こえ始める。
「え、ちょっと、リュウくん……? 嘘、もう寝ちゃったの……?」
肩越しに振り返ると、そこには過度の緊張から解放され、完全に無防備な顔で眠りこける男の姿があった。
「……はぁーーー!!! 緊張したーーー!!!」
リュウの完全な睡眠を確認した瞬間、ユイはソファからそっと抜け出し、大きく息を吐き出した。自分の顔が、今更になって爆発しそうなほど熱くなっているのがわかる。
ユイはあきれたようにため息をつきながらも、クローゼットから毛布を持ってきて、ソファで眠るリュウの身体にそっとかけた。
「……ヨシヨシ。よく頑張りました」
小さくリュウの頭を撫でた後、ユイは表情を引き締めた。
彼女はリビングのローテーブルに向かい、ケイから預かってきたN3の機密データと、分厚い戦術攻略本をバサリと広げた。
手元灯の小さな明かりの中、ユイの瞳の奥の算盤が、冷徹に、そしてかつてないほど熱く火花を散らし始める。
ユイは夜が明けるまで、一週間後の決戦に向けた完璧な作戦を、ただ一人で夜通し練り続けるのだった。




