崩れる算盤
「外でやろうか」
ケイはそう言うと、リュウの喉元に突き立てていた火縄銃の銃剣を、滑らかに引き下げた。冷たい刃が離れた瞬間、リュウは無意識に止めていた息を小さく吐き出し、力強く頷いた。
「……はい」
「あーあ、大変なことになっちゃったなー」
隣でそのやり取りを見ていたユイは、他人事のように頬に手を当てて溜息をつく。だが、その瞳の奥の算盤は、これからの実戦データがもたらす期待値に、激しく火花を散らせていた。
三人が向かったのは、雑居ビルに隣接する、薄暗く湿った高架下だった。
頭上を走る線路のせいで陽の光は遮られ、コンクリートの太い柱が墓標のように乱立している。地面にはひび割れたアスファルトと、境界線から吹き込む赤茶けた砂が薄く積もっていた。
「ここなら誰も来ねぇ。――ほら、出し惜しみすんなよ。お前の『龍の本当の力』、引きずり出してやるからさ」
ケイは無造作に火縄銃を構え、死んだ目のまま顎をしゃくった。
「……遠慮なく、行きます!」
リュウの右腕に黒い鱗が波打つ。
次の瞬間、リュウが地面を強く蹴りつけた。ドゴォン!! と高架下に爆音がおびただしく反響し、踏み締められたアスファルトが蜘蛛の巣状に激しく爆ぜる。龍の脚力が生み出す、圧倒的な初速。
「さすがは本物の龍、いい筋だ。――けどな、戦闘ってのは速度だけじゃねぇんだわ」
迫り来るリュウを前に、ケイは慌てる風もなく、足元の赤砂をすくい上げて前方へと豪快にぶち撒いた。
「ふん……っ!」
視界を遮る砂埃。だが、リュウは怯まない。龍の聴覚が捉える呼吸を頼りに、砂のカーテンの向こう側――ケイがいるであろう座標へと、漆黒の右拳を容赦なく突き刺した。
しかし、手応えは皆無。拳は虚しく空気を切り裂いただけだった。
「賢い奴は、わざわざそこに留まらねぇよ」
「――っ!?」
声は、頭上から降ってきた。
ケイは砂を撒いた極小の目眩ましの隙に、銃剣のフックを頭上の高架の梁に引っ掛け、一瞬で上空へと退避していたのだ。
重力に従い、急降下しながら放たれるケイの苛烈な猛攻。銃身を打突武器として振り下ろす変幻自在の連撃に、リュウは完全に翻弄される。完全に上を取られ、防御の姿勢を崩すことができない。カウンターに移る隙すら与えられない、プロの圧倒的な実戦経験。
「リュウーーーッ!! 何日和ってんの、漢見せろーーー!!」
柱の陰から、ユイの容赦ない檄が飛ぶ。
その声が、リュウの脳裏に、自らの鱗を引き剥がしたあの時の熱を蘇らせた。ここで負けたら、ただの口だけのガキだ。カッコ悪いままで終わってたまるか……!
「おおおおおっ!」
リュウはケイの鋭い突きをあえて肉体で受け止め、肉を切らせて骨を断つタイミングで、低く身を沈めた。そして、泥臭くケイの軸足を強引に引っ掛け、その巨体を地面へと転ばせる。
「――貰ったぁ!!」
完璧な隙。リュウが勝ちを確信して拳を振り上げた、その刹那。
「残念だ。視野が狭ぇよ」
仰向けに倒れ込みながらも、ケイの目は冷徹に濁っていた。
ケイはリュウを見ることもなく、その銃口を、リュウの身体を通り越した「ある一点」へと向けた。
ユイはバカではない。手合わせが始まった瞬間から、絶対に射線に入らない安全なコンクリート柱の裏に完全に身を潜めていた。
しかし、ケイの戦術は彼女の知性を遥かに上回っていた。ケイが狙いを定めたのは、ユイが隠れる柱の根元。あの大口径の弾丸が放たれれば、柱の土台ごと粉砕され、その爆縮による崩落と、飛び散るコンクリートの破片がユイの全身を確実にハチの巣にする。
ケイはリュウに足を引っ掛けられる刹那の間で、ユイがどこに隠れようとも一撃で仕留められる「崩落の射線」を冷徹に計算し、銃口を固定していたのだ。
――カチリ、と駆動音が響く。
「……ッ、ユイ――ッ!!」
リュウの脳内が、真っ白に弾けた。
その瞬間、彼の身体の奥底に眠る『龍の因子』が、大切な存在を守るという極限の負荷によって、強制的に覚醒を遂げる。
ドクン、と心臓が跳ね、リュウの瞳が鮮血のような赤へと染まった。
直後、彼の背中から、半透明の結晶で編まれたような、禍々しくも美しい「龍の羽」が爆発的に具現化する。
放たれたケイの弾丸は、空間を覆うように展開されたその半透明の羽によって、激しい火花を散らしながら完全に叩き落とされた。
「……へぇ。それが『龍化』の第2段階か。大したもんだ」
「あ……あ、あ、ああ……」
リュウは自分の身体を包む、圧倒的な全能感に支配されていた。
身体が軽い。世界が遅く見える。背中の羽を羽ばたかせると、重力をあざ笑うように、高架下の空間を自在に高速で飛び回り始めた。
――なんでも出来る。今の俺なら、この世界の誰にだって勝てる。
「終わらせるぞ、ケイ……ッ!!」
今までとは明らかに違う、獣のような荒々しい声がリュウの喉から響く。完全に龍の闘争本能に意識を飲み込まれかけていた。
リュウは上空から、自らの漆黒の右腕へと、全身の全エネルギーを爆発的に収束させていった。細胞がパチパチと鳴り、超高熱の魔力が腕を包み込む。
「燃えろぉぉ――ッッ!!」
リュウの右手から、高架下を一瞬で昼間のように照らし出す、猛烈な『蒼い炎』が放射される直前。
「はい、降参ー」
ケイが両手を上げて、あっさりと白旗をあげた。
その声が、暴走しかけたリュウの脳裏に、ギリギリのところで届く。
刹那、リュウは己の強靭な精神力だけで、解き放たれる直前だった極大の蒼い炎を、力づくで自らの右腕の奥底へと「圧し戻した」。暴れ狂うエネルギーを体内で強制鎮圧する。
エネルギー切れなどではない。相手を殺さないため、そして周囲を完全に消し飛ばさないために、リュウは「自らの意志で出力をゼロにした」のだ。
だが、行き場を失った莫大なエネルギーが体内で逆流し、その凄まじい内圧の反動が、リュウの脳を激しく揺るがした。圧倒的な自己制御の代償として、リュウの意識はそこでぷつりと途切れた。
空中から人形のように高速で地面へと吸い込まれていくリュウの身体を、ケイは片手で器用に受け止めると、そのままユイの足元へと放り出した。
「過呼吸みたいなもんだ、死んじゃいねぇよ。……おいユイ、こいつが起きるまで、ちゃんと見てろよ」
ケイはそう言い残し、火縄銃を肩に担いで、ビルの闇へと戻っていった。
静まり返った高架下。
倒れたリュウを見下ろしながら、ユイの脳内では、冷徹な算盤の珠が目まぐるしく弾かれていた。
(……やばいんだよね、これ。このままいけば、リュウくんは私がいなくても、自力でどこまでも強くなれちゃう。そうなれば、戦闘力のない『足手纏い』でしかない私を、わざわざネオシスまで連れていってくれる可能性が減るじゃん……)
芸能界は弱肉強食。主導権を握れない人間は捨てられる。
(だったら、手段は一つ。……やっぱり、リュウくんに私のことを、本気で好きになってもらうしかないよね。完全に私に堕ちてもらうの。恋は、相手を支配するための最強の武器だから)
ユイは表情を瞬時に『完璧なヒロイン』へと切り替えると、床に膝をつき、リュウの頭を優しく自分の太ももの上に乗せた。そして、慈しむように、細い指先で彼の髪をそっと撫で始める。
「……ん、……ぅ……」
頭に伝わる、柔らかくて、ひどく温かい感触。
ゆっくりと目を覚ましたリュウの視界に映ったのは、ユイのどこか儚げな美貌だった。
「……温かい……」
「あ、起きた?」
ユイはリュウの目が見開かれた瞬間、彼の身体をぎゅっと抱きしめた。ワンピース越しに伝わる彼女の体温が、リュウの肌に染み渡る。
「……っ!?!? え、あ、ユイ、あの、いろいろ、あ、近っ……!」
「……心配したんだよ、バカ」
ユイは抱きついたまま、声を小さく震わせる。
「もう30分も起きないんだもん……。本当に、死んじゃったかと思ったんだから……っ」
「いや、あの、その、すいません、大丈夫ですから……!」
テンパりすぎて開いた口が塞がらないリュウ。ユイはゆっくりと顔を離すと、潤んだ瞳でリュウを見つめた。彼女の目頭は、完璧な演技によって、うっすらと赤くなっている。
「……ごめんね、無理させちゃって」
「あ、いや……俺が勝手にやったことだから。……それより、あの、N3の情報はどうなったの?」
赤面をごまかすように話を逸らすリュウに、ユイは小さく鼻をすすりながら、ケイから預かった伝言を口にした。
「……一週間後にね、N3が大きめの集会を開くんだって。そこに直接突撃すれば、事務所の装甲車もそこにあるんじゃないかって、叔父さんが」
「一週間後……分かった。それまでに、もっと動けるようにしておく」
「うん。じゃあ、今日はもう帰ろうか。明日は学校もあるしね」
「……そうだね」
起き上がったリュウの後ろを歩きながら、ユイは自分の胸のあたりをそっと押さえた。
(あれ……? おかしいな。さっき、泣く真似をするつもりだったんだけど……なんで私、本当にちょっと涙が出そうになってたんだろ……)
自分の完璧な計算に混ざり込んだ、未知のバグ。
ユイが戸惑いからふと足を止めると、前を歩いていたリュウが振り返り、気遣わしげに彼女を見つめた。
そして、不器用ながらも、大きな背中をユイに向けそして、膝をついて姿勢を低くした。
「どうしたの? ……大丈夫? 疲れちゃった? じっと立ってたら、寒くなっちゃうよ。……おんぶ、しようか?」
夕暮れのネクロの街並みを背景に、どこまでもピュアに自分を気遣う少年の、圧倒的な「カッコよさ」。
(……あれ? リュウくんって……こんなにカッコよかったっけ?)
ドクン、と、ユイの心臓が、生まれて初めて計算外の音を立てて跳ね上がった。
仕掛けたはずの罠に、自分自身が引きずり込まれそうになっている。主導権を失いかけている自分への、猛烈な苛立ちと焦燥感。
(やばい、やばいやばい。早く、一刻も早くこの子を完全に堕とさないと、私のほうが……っ!)
「だ、大丈夫だよっ!」
ユイは湧き上がる焦りを隠すように、いつもより強引に、余裕のない足取りでリュウを追い抜いて先を歩く。
「……? 顔、すごく赤いけど」
「赤くない!! もう、なんでか喋り方わかんなくなっちゃったじゃん……!」
「喋り方って……。なんか、怒ってない?」
「怒ってない!!」
「怒ってるじゃん……」
気まずい沈黙のまま、ガタゴトと走る帰りの電車に揺られ、二人はネクロの自宅周辺へと戻ってきた。辺りはすっかり暗くなり、寂れた街灯が夜の路地を照らしている。
「じゃあ……気をつけてね、ユイ」
リュウがいつも通り、彼女の家の前で足を止め、少し照れくさそうに頭を下げた。
ユイはそんな彼の学ランの裾を、今度は計算ではなく、剥き出しの焦燥感に突き動かされるように、ぎゅっと力任せにつまんでいた。
早く、この最強の男を、私の手のひらの上に縛り付けなきゃいけない。そうしないと、私の心臓がもたない。
ユイは俯き、赤くなった顔を隠すように、いつもより強引で、どこか余裕のない上目遣いでリュウを見つめた。
「……ねぇ、リュウくん」
息を呑むリュウに、ユイはいつもより少しだけ尖った、逃げ道を塞ぐような声で告げた。
「あのさ、……家、上がっていかない?」
「――ッッ!?!?!?!?!?!?!?」
リュウは顔をトマトのように真っ赤に染め上げ、開いた口が完全に塞がらなくなった。少年のピュアな心臓が爆発する寸前のところで、ネクロの夜が静かに更けていく。




