本物の輝き
「おはよー、リュウくん!」
翌朝、校門をくぐった途端に背後から声をかけられた。
振り返るまでもない。鈴を転がすような澄んだ、けれどどこか計算高さを孕んだその声は、昨日ボディーガードの「契約」を迫ってきた美少女、ユイのものだった。
「あ、……う、ウス」
リュウはびくりと肩をすくめ、学ランのポケットに右手を深く突っ込んだまま、蚊の鳴くような声で応じる。
ユイはそんな彼の様子を気にする風でもなく、隣に並んで楽しげに歩調を合わせた。
「放課後、教室に残っててね。約束だよ?」
「……わかり、ました」
それだけ言い残し、ユイは風のように教室へと駆けていく。残されたリュウは、朝の光に照らされる自分の黒い鱗を見つめ、小さくため息をついた。
放課後の教室。夕焼けのオレンジ色が、机を長く斜めに切り取っている。
誰もいなくなった室内に、ユイの差し出した一冊のノートが置かれた。
「あのさ、何でボディーガードが出来ないのか、理由をここに書き出してみてよ」
ユイは一つの机を挟んで向かい側に座り、可愛らしく頬杖をつきながらリュウを覗き込んできた。
リュウは無言のままペンを握り、ノートに向かって黙々と文字を書き進める。サラサラと静かな音が室内に響く。
「ゆっくりでいいからねー」
ユイののんびりとした声が降ってくる。
「書きながら聞いて。私ね、大都市『ネオシス』に行くつもりなの」
ピタリ、とリュウのペンが止まった。リュウは眉の間に深い皺を刻み、ゆっくりと顔を上げる。
言いたいことは山ほどあった。しかし、それを滑らかな言葉に変換する能力が、今のリュウには決定的に不足している。
リュウはノートをトントンと指先で叩き、周囲をキョロキョロと落ち着かなさそうに見回しながら、喉の奥から這い出るような声を絞り出した。
「……大体、わかったよ。一般道には、野良の『竜』じゃなくて……本物の『龍』が出る。だから、普通の手段じゃ、行けないってこと、だよね」
必死に言葉を紡ぐリュウを、ユイは感心したように見つめていた。
「すごいじゃん、ちゃんと喋れてる。私とだったら、もう普通に喋れるの?」
「……話し、やすい、から」
リュウは気まずそうに視線を逸らした。あれだけ他人が怖かったのに、この規格外の少女を前にすると、不思議と怯えよりも別の感情が勝るのだ。
「で? 何が無理だって書いたの?」
ユイがノートを引き寄せる。そこには、聞き取りづらいリュウの声の代わりに、彼の確かな意志が理路整然と書き連ねられていた。
一、ネオシスへ行くためには、龍の襲撃に耐えうる強固な装甲車が必要。
二、大都市へ至る未開拓ルートの移動知識が必須。
三、俺の龍の力は、使えば使うほど右腕からの龍化が進行する。命を削る以上、守るべき価値がある相手か否かは、こちらが判断する。
四、最後に――俺はまだ、ユイの神聖性を、いや、人間性を信頼していない。
一度も目を合わせようとしないリュウだったが、その文字からは確固たる拒絶と、彼自身の抱える冷酷な現実がしっかりと伝わってきた。
しかし、ユイはノートを閉じると、不敵な笑みを浮かべた。
「車はなんとかなる。知識はおいおい詰め込めばいい。……問題は、私を信頼できるかどうか、だよね」
ユイは椅子の距離を詰めると、机に身を乗り出した。至近距離。長い睫毛の奥にある綺麗な瞳が、リュウの視線を強引に捕らえる。
「だったらさ、私のことを知ってもらおうよ! ってことで、今から私の仕事、見にこない?」
上目遣いで、ずるいくらいに可愛らしく懇願するユイ。
「ま、……まあ、分かりました」
その破壊力に圧され、リュウはコクコクと頷くしかなかった。
「なら行こう! ――あ、やばい、ちょっと遅れそうかも!」
ユイは手元の時計を見るなり顔色を変え、カバンを掴んで教室を飛び出した。校門を出る頃には、彼女は小走りになって焦り始めている。
その背中を追いかけていたリュウは、ふと足を止め、その場に片膝をついた。
そして、自分の背中をユイに向ける。
「……乗って」
「え?」
足を止めたユイが、戸惑いの声をあげる。
「急ぐ、から。……しっかり、捕まってて」
ユイは一瞬指を震わせたものの、リュウの真剣な横顔を見て、その背中に腕を回した。
少女の柔らかい体温と甘い香りが背中に伝わった瞬間、リュウの心臓が爆発しそうになるが、彼はプロの戦士として理性を保った。
「いくぞ」
リュウが右腕を虚空へと掲げる。その刹那、漆黒の鱗が数枚、凄まじい速度で前方へと射出された。
鱗は遥か先にある電柱の頂点へと突き刺さり、そこに強靭な目に見えない力の糸を形成する。
「えっ、何して――きゃあ!?」
ユイが悲鳴を上げるのと同時だった。
リュウの身体が、引き絞られたゴムが弾けるように、高速で前方へと引っ張られた。二人の身体がふわりと宙に浮き、重力を無視して建物の屋根すれすれを滑空していく。
「だ、大丈夫……?」
風圧に負けないよう、リュウは耳元で声を絞り出した。
ユイは驚きに目を見開いていたが、すぐにその速度に順応し、リュウの首にぎゅっと抱きついた。
「すごいね、リュウくん!」
「へ、へゃっ!?」
耳元で美少女に囁かれ、リュウは情けない裏返った声をあげてしまう。
そのままユイが空中から進路を指示し、リュウは鱗のワイヤーワークを駆使して街を縦横無尽に駆け抜けた。結果として、予定よりも二十分以上早く、目的地である撮影スタジオへと到着したのだった。
「ありがとう、助かったよ」
着地するなり、ユイはリュウの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
リュウは顔を真っ赤にしながら、借りてきた猫のように固まる。
「さ、見ててね」
スタジオに入ると、ユイの纏う空気が一変した。
大勢の大人が慌ただしく行き交う中、ユイが足を踏み入れ、挨拶を交わしながらメイクアップの準備を始める。リュウはその隅のパイプ椅子に縮こまりながら、その光景を眺めていた。
「……今日は、何をするんですか」
鏡越しに、リュウは声をかける。
「んー、今日は雑誌の巻頭グラビアの撮影。ちょっと大人っぽい服を着るんだよね」
「ユイちゃん、出番だよ! スタジオ入って!」
スタッフの太い声が響く。
「はーい!」
ユイは元気よく返事をすると、用意された衣装に身を包み、眩い照明が放たれるステージの中央へと進み出た。
カメラのフラッシュが激しく焚かれる。
その瞬間、リュウは息を呑んだ。
ステージの上のユイは、完璧だった。
カメラマンの過酷な要求に応じて、刹那の間に次々とポーズを変えていく。切ない表情、挑発的な視線、無邪気な笑顔。レンズを見つめる彼女の瞳には、一切の迷いがない。
だが、数時間が経過し、撮影が終盤に差し掛かった頃、リュウはある違和感に気づいた。
ユイのポーズが、明らかに人間の可動域の限界を試すような、過酷なものにシフトしている。衣装として用意されたピンヒールは、彼女の足のサイズに全く合っていないのか、不自然に肉を圧迫していた。
ふと、彼女の足元に視線を落としたリュウは、戦慄した。
(――っ!?)
ヒールのストラップが食い込み、ユイの白い足首からは、じわりと赤い血が滲み出ていた。ストッキングを汚し、床に一滴、血が滴る。
それほどの痛みに晒されているのだ。普通なら顔が歪む。ポーズが乱れる。
しかし、ユイの顔には、一ミリの苦痛も、焦燥もなかった。
それどころか、彼女の瞳の奥には、世界をその手で掴み取ろうとする底なしの「歓喜」と「渇望」だけがギラギラと渦巻いていた。
血を流しながら、完璧なアイドルの笑顔でフラッシュを浴び続ける少女。
(この女……狂ってる)
リュウの背中に、冷たい汗が伝わった。
痛みに耐えているのではない。彼女は、夢のため、目的のためであれば、自分の肉体が壊れることすら「何とも思っていない」のだ。
ただの腹黒い女だと思っていた。違う。自分の心身すら容赦なく削り狂う、本物の怪物だ。
「はい、オッケー! 撮影終了です! お疲れ様でした!」
スタッフの声が響き、スタジオの熱気が引いていく。
衣装から私服に着替えたユイが、足首に雑な絆創膏を貼った状態で、少し疲れた様子でリュウの元へと歩いてくる。
「どうだった?」
ユイは覗き込んできたが、リュウはただただ唖然としたまま、言葉を失っていた。
「ねえ、どうだったってば?」
もう一度ユイが顔を近づけて聞いてくる。
リュウは深く息を吸い込み、今度は喉を詰まらせることなく、まっすぐにユイの目を見て言った。
「すごかった。……本当に、凄かった。かっこよかった、です」
お世辞も、厨二病のフィルターもない、剥き出しの本音だった。
ユイは一瞬だけ意外そうに目を見開いたが、すぐにふん、と満足そうに鼻を鳴らした。
「そ、そうでしょー? 私、世界一のアイドルになるんだから。これくらい当然よ」
どこか照れ隠しのような笑みを浮かべ、ユイはスタジオの出口へと歩き出す。
「さ、帰るよ、リュウくん」
だが、リュウは動けなかった。
薄暗い通路の真ん中で、ピタリと足を止めたまま、己の内側から湧き上がる猛烈な感情の濁流に、身を焼き尽くされそうになっていた。
(何が『長く生きるつもりはない』だ。何が『運命の歯車』だ……!)
恥ずかしかった。
世界の終末だの、選ばれし呪いだの、嘘の闇に隠れて斜に構えていた自分が、モーレツに、死にたくなるほど恥ずかしくなった。
目の前の少女は、本物の血を流して、本物の命を削って、世界の頂点へと這い上がろうとしている。それに比べて自分はどうだ。ただコミュ障であることを言い訳に、傷つくのを恐れて殻にこもっているだけではないか。
そんな自分が、彼女のノートに「お前に守る価値があるか」などと、上から目線で書き連ねていたのだ。
(嫌だ。……そんなの、絶対に嫌だ)
この怪物の隣に、ただの怯える「お荷物」として立ちたくない。
命を削る価値があるか否かを判断するだと? 違う。価値を証明しなければならないのは、俺の方だ。
コミュ障とか、引きこもりとか、化け物とか、言っている場合じゃない。
俺は――。
胸の奥で、何かがパチンと弾け飛んだ。
純粋すぎるがゆえに、一度火がついた焦燥感と熱い衝動は、もう誰にも止められなかった。リュウは拳を血が滲むほど強く握りしめ、人生で初めて、己の魂をそのまま大音量で世間に叩きつけるように叫んだ。
「あのさ! ――俺も、カッコよくなりたい……!!」
偽物の格好つけじゃない。ユイのように、自分の足で立ち、世界を掴み取るための本物の男に、俺はなりたい。
夕暮れのスタジオの通路に、リュウの必死な叫びが木霊する。
「……え??」
あまりに突然の、そして予想外の方向に限界突破したリュウの宣言に、さしもの計算高いヒロインも、ただ呆然と声を漏らすことしかできなかった。




