漆黒の右腕と完璧なヒロイン
新学期の喧騒に沸く廊下で、ユイは一人、スマートフォンの画面を冷めた目で見つめていた。
画面に表示されているのは、大都市圏へ向かう『都市間乗り合い装甲バス』の運行状況。ステータスは【無期限見合わせ】。理由は「野生龍の活性化に伴うリスクの増大」だ。
(……やっぱりね。この狭い地方都市に燻っているわけにはいかないのに。世界に名を轟かすトップアイドルになるためには、どうしてもこの危険な境界線を越えなきゃいけない。そのためには……)
「ワイ、ユイちゃんじゃん! 今月号のグラビア見たよー!」
「サイン頂戴よ、有名人!」
下卑た笑みを浮かべたクラスの男子どもが、ぞろぞろと群がってくる。ユイは一瞬で思考を切り替え、完璧に作り込まれた「無邪気なアイドルの笑顔」を貼り付けた。
「ありがとー! でもごめんね、次、移動教室だから急がなきゃ!」
愛おしげに手を振りながら彼らをすり抜ける。その笑顔の裏で、ユイの瞳は値踏みするように、廊下の向こうから歩いてくる一人の少年に固定されていた。
少年――リュウは、喧騒から完全に孤立していた。
学ランの右袖から覗くその手は、人間の皮膚ではない。光を鈍く反射する、禍々しい漆黒の鱗に覆われている。
(フン、俗世の有象無象どもが、浅間しい……。光に群がる羽虫のごとく、哀れに踊るがいい……)
前髪を大袈裟に掻き上げ、愛おしそうに右手の鱗をなぞるリュウ。
世界を滅ぼしかけた絶対的上位存在の呪い、通称『龍化病』。この右手から侵食を続ける龍の因子は、いずれ彼の自我を喰らい尽くし、完全なる怪物へと変貌させる。医者には長く生きられないと告げられていた。
だが、リュウは冷酷に決めていた。この狂った世界で、長く生きるつもりなどさらさらない。
完全に己の世界に没入し、心の中で大演説をぶちかましていた、その時だった。
「あの、リュウくん、だっけ?」
唐突に正面から声をかけられ、リュウはビクゥッと大きく肩を震わせた。
見上げれば、頭部から小さな二本のツノを生やした――この世界ではありふれた種族である『竜人』の――クラスメイトが、困惑した顔で彼を見下ろしている。
「次、移動教室。美術室だから。ここ閉めるよ」
「……、……っ、……す」
あまりのコミュ障ゆえ、声にならない掠れた音しか出ない。リュウは大急ぎで何度も頭を下げると、縮こまりながら筆記用具を掴み、競歩のような速度でその場を逃げ出した。
「はぁ……」
渡り廊下の陰に隠れ、リュウは深く息を吐き出した。気を取り直すように右手をポケットの奥へ押し込み、再び壁際を静かに歩き出す。
だが、前方の角から、不穏な声が耳に届いた。
「いいじゃん、ちょっと遊ぼうよ。俺さ、こう見えて竜の身内と繋がりあってさ。結構顔利くんだよね」
他クラスのヤンキー二人組が、ユイを壁際に追い詰めていた。他人の威を借る、底の浅いナンパ。
通り過ぎようとしたリュウだったが、ユイの視線と真っ向からぶつかった。怯えなど微塵もない。それは、何かを冷徹に見定めようとする、獲物を狙う猛獣のような強い瞳だった。
リュウは内心で盛大にため息を突き、ポケットから右手を抜き、重い足取りで二人の間に割って入った。
(……光を失いし哀れな仔羊よ。その汚れた手を引き、闇の彼方へ去るがいい)
心の中でどれほど大層な口上を述べようとも、現実の口から出たのは、他人が聞き取ることも難しいほどに小さく掠れた、不気味な呟きだった。
「あんだぁ? 何言ってんだお前、気色悪いな!」
ヤンキーの一人が苛立ち、リュウの胸ぐらを掴もうと拳を突き出す。
鋭い一撃。だが、リュウは首をほんの数センチ傾けただけで、その拳を完全に紙一重でかわした。
(……フッ、運命の歯車は、すでに回り始めているのだよ)
無言のまま、リュウは体軸を一切ぶらすことなく、踊るような滑らかな足捌きで、男が放つ二の矢、三の矢の打撃をすべて容易く虚空に消していく。
「やめて、二人とも……!」
「オラ、避けんなよ!」
焦れた二人目の男が、リュウの死角から殴りかかろうとした、その瞬間だった。
リュウの目が冷たく据わった。
言葉を発することすら無駄だと言わんばかりに、黒い鱗の右手が、しなやかに、そして目にも留まらぬ速さで一閃する。
――パチィン、と乾いた音が響いた。
それは、まるで頬を優しく撫でるかのような、脱力しきった素手の裏拳だった。
しかし、接触した瞬間に爆発的な質量へと変わる。男の身体は真横へと激しく吹き飛び、廊下の壁をみしりと凹ませてそのまま崩れ落ちた。
「なっ、何やってんだよ、てめぇ!?」
相方が一瞬で沈められ、もう一人が顔を引き攣らせて距離を詰めてくる。
リュウは動じない。漆黒の鱗ではなく、今度はその長い右足を、鞭のようにしならせて高く跳ね上げた。
美しい軌道を描いたノーモーションのハイキックが、正確に顎の先端を打ち抜く。
骨の砕ける鈍い音が響き、男は白目を剥いて垂直に崩れ落ちた。
終始、一切の隙のない圧倒的な徒手空拳。無言ゆえの底知れない狂気が、廊下に充満する。
「すごーい、本当に強いんだね」
静かに足を下ろしたリュウの背後から、小気味よい拍手が聞こえた。ユイが両手を頬に当て、完璧に計算された「守られたヒロイン」の笑顔で微笑んでいる。
「良かったらなんだけど……私の、ボディーガードにならない?」
「……っ」
急に距離を詰められ、リュウは一歩後ずさる。視線を激しく泳がせ、喉を詰まらせた。
「もしかして、人と喋るの苦手?」
リュウはきつく唇を噛み締め、首を横に振ることで、全力の拒絶の意志を示した。しかし、ユイの目は獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝いていた。
「決めた。私、絶対に貴方をボディーガードにする!」
その時、タイミングよく移動時間を告げるチャイムが鳴り響いた。
「あ、やばい、急がないと――って、いない!?」
ユイがチャイムに気を取られた、ほんの一瞬。
リュウは野生の獣のような隠密性で、すでにその場から煙のように消え去っていた。
放課後。校門へ続く道。
リュウは無言で、かつてないほどの早足で歩いていた。その後ろを、ユイがぴったりと追いかけている。リュウが左右にステップを踏んで逃げ回っても、彼女は涼しい顔で追従してきた。
(あああああもう! なんで僕に構うんですか! 怖い! この美少女怖い!!)
心の中で涙目で絶叫するリュウだったが、いくら逃げてもユイは涼しい顔で距離を詰めてくる。あまりのプレッシャーに耐えかね、ついにリュウは足を止め、肺にある空気をすべて絞り出すようにして声を絞り出した。
「な、なんで……僕なんかに、構うんです、か……っ」
それは、今にも消え入りそうなほど震えた声だった。
しかし、ユイは待ってましたと言わんばかりに、あざとく小首を傾げて満面の笑みを浮かべる。
「んーー、直感! 君くらい強い人に、私の隣にいて欲しいんだよね」
ユイの言葉に、リュウはポケットの中の黒い鱗の手を強く握りしめた。
じわりと、暗い感情が胸を焼く。
「……俺は、人を守れるほど、強くない。……ただの、化け物、だから」
他人を拒絶するための、彼にとっては精一杯の冷たい言葉。
だが、ユイはそんな彼の葛藤などどこ吹く風で、あっけらかんと言ってのけた。
「そんなことないと思うけどなー。じゃ、一緒に帰ろ!」
「……っ」
会話を強制終了させられ、リュウが呆然と肩を落とした、その時だった。校門の先に、ただならぬ殺気が漂う。
「アニキ、こいつですよ! こいつの手がヤバくて!」
昼間のヤンキー二人組を含めた、柄の悪そうな連中が十数人、行く手を阻むように溜まっていた。
その中心に佇むのは、頭部が完全にトカゲのそれである、大柄な『竜』の男。先天的強者である竜の身体能力は、人間とは比べ物にならない。男がただそこに立っているだけで、周囲の砂埃がねっとりと渦巻くような、本物の肉体的な圧力を放っていた。
「その女ももらうし、そいつもボコすか」
竜の男が下卑た笑みを浮かべ、ユイを値踏みするように睨みつけた。
絶体絶命。しかし、ユイの頭脳は高速で回転していた。
(間違いない。あの無駄のない身のこなし、そして一撃の重さ。人間より遥かにタフで凶暴な竜を突破して境界線を越えるには、あの圧倒的な武力が絶対に必要……。昼の仕返し。逃げるのは無理。なら――ここで、彼の本当の力を引っ張り出す)
「うわぁ、大変、助けてー」
ユイは全く感情のこもっていない乾いた声を上げると、あえてトコトコと、竜の男たちの前へと小走りで近づいていってしまった。
人質になれば、彼は動かざるを得ない。自分の身の安全すら交渉材料にした、冷徹なまでの豪胆な賭け。
(なっ、何やってんだあのバカ……!?)
リュウの脳裏に激しい焦燥が走る。
(なんでだよ……! 俺には関係ないはずなのに……っ!)
理屈よりも先に、リュウの身体が動いていた。
地面を蹴った瞬間、彼の全身から、野生の竜ごときが束になっても届かない、かつて世界を滅ぼしかけた絶対的上位の存在――『龍』のプレッシャーが爆発的に解き放たれる。ゴロツキたちの背筋に、本能的な恐怖の悪寒が走った。
――ドンッ! と、校門のコンクリートが爆ぜた。
リュウの踏み込みの一歩。凄まじい風切り音が大気を裂く。
次の瞬間、リュウの姿は掻き消えていた。
「が、あ――!?」
最初に声を上げたのは、最前方にいた竜の男だった。
気づいた時には、リュウはその巨体の懐へと完璧に潜り込んでいた。漆黒の右拳が、男の硬質な腹の鱗へと突き立てられる。
――衝撃波が男の背中へと突き抜けた。
鉄板並みに頑丈なはずの竜の鱗が、内側から粉砕されて弾け飛ぶ。竜の男は悲鳴を上げる暇すらなく、内臓を揺らされてその場に崩れ落ちた。
「な、にが――」
驚愕に目を見開く周囲のゴロツキども。だが、リュウの素手の打撃は止まらない。
軸を寸分もぶらさない超高速のステップ。流れるような旋回運動から放たれるのは、目にも留まらぬローキックと踏み付けの連打だった。
肉を穿つ重低音が一瞬で十数回響く。
リュウが通り過ぎた大気の残響の中で、連中は一斉に膝関節を破壊され、悲鳴と共に地べたへと崩れ落ちていった。文字通りの一瞬。圧倒的な蹂躙だった。
その阿鼻叫喚の渦中から、リュウはユイの身体をふわりと横抱きに掬い上げた。そのまま地面を爆破するように跳躍し、近くの民家の屋根の上へと一気に飛び上がる。
夕日に照らされる屋根の上。
風が二人の髪を揺らす。リュウの腕の中で、ユイは怯えるどころか、勝利を確信した満面の笑みを浮かべていた。
「ほらね。これで、君が人を守れる強さを持ってるって、証明できたじゃん!」
リュウは肩を激しく上下させながら、呆れ果てた顔で彼女を見下ろす。その口から、ようやく掠れた声が漏れた。
「……む、無茶を、しすぎです……」
「ふふ、タメ口でいいよ?」
ユイはリュウの首に腕を回したまま、その耳元でいたずらっぽく囁いた。
「これで、君が私のボディーガードを出来ない理由が、一つ減ったね」
「……っ」
「君がボディーガードを出来ないっていう理由、これから私が全部、無くしてあげる。そうしたら、絶対にボディーガードしてくれるでしょ?」
自信に満ち溢れた、絶世の美女の笑顔。それはどこか、男を破滅に導く悪魔のようでもあった。
「いつか必ず、私のボディーガードにしてあげるから」
驚きに目を見開くリュウの手を、ユイは逃がさない。
彼女は強引に、リュウの禍々しい漆黒の鱗がついた右手に、自分の綺麗な小指を絡ませた。
「約束ね」
夕暮れの街を見下ろしながら、少女は優しくはにかんだ。
破滅の呪いを持つ無口な少年と、大望を抱く腹黒な少女の、奇妙で冷徹な契約がここに結ばれた。




