09-ダグラーゼで生きるということ
ジーク様はなかなか帰ってこなかった。
王都では魔物の姿を見ることはなく、討伐にどれほどの時間がかかるものか予想もつかず落ち着かない。
ラディウスにいつもどれくらいで戻られるのか尋ねると、半日ほどは帰ってこないという。
「このような討伐は、多いのですか?」
「週に一度ほどでございます。増殖期が重なると頻度は増えますが……」
「増殖期……」
資料で読んだ。魔物は子を成さないという。魔の森には『魔物溜まり』と呼ばれる場所があり、そこから突然現れるのだそうだ。
増殖期とは、『魔物溜まり』から発生する魔物が異常に増えることだと書いてあった。
「私は早くジーク様の仕事を代行できるようにならねばなりませんね」
ラディウスは虚を突かれたような顔をして、それから表情を隠した。
「奥様が旦那様を支えてくださることを期待しております」
そう言って、軽く腰を折った。
夕食後、私は蔵書室から持ち出した領の歴史を読んでいた。……いや、眺めていた、の方が正しいのかもしれない。
まったく頭に入らず、頁をめくることもない。
ジーク様はまだ帰ってこない。
今は日が高い季節だというのに、もう空は茜色に染まり始めていた。
——カチャ、カチャ。
かすかに規則正しい音が聞こえた。足音だ。普段とは異なり、金属がこすれるような音。
「ジーク様?」
私に用意された部屋より奥にジーク様の部屋はある。
ジーク様が戻ってきたと報告もないので、本人が自室へ戻る途中なのだろうと推測した。
私は顔を確認したくて、廊下へ通じる扉を開けた。
「っ!」
やはりジーク様だった。
私が急に扉を開けたことに驚いていたけど、私もそれ以上に動揺した。
「ひっ!」
後ろでアミュレの短い悲鳴が聞こえる。
赤黒い何かがべっとりと鎧についていた。動揺を隠すために深く息を吸う。
生臭いような匂いが鼻をつく。……血の匂いだ。
「ジーク様! お怪我をされているのですか?!」
「……いや、俺は無傷だ」
ジーク様も動揺していたのだろう、一人称が『俺』になっている。
『無傷』という言葉に、身体の強張りが解けていく。
深く息を吸って、吐く。
「ご無事にお戻りになって、安心いたしました」
深呼吸してから、告げた声は震えていなかった。上々だ。
「……後で話す時間は取れるか?」
私の様子を見たジーク様が聞いてきた。私は一瞬遅れて頷いた。
「半刻ほどで部屋に伺おう」
そう告げて自室の方へ歩き始めた。私はジーク様が部屋に入るのを見届けてから、自分も部屋の中へ戻る。
「アミュレ!」
初めてアミュレの様子に気づいた。顔は真っ青で、カタカタと震えている。
「ごめんなさい、貴方への配慮が足りなかったわ」
アミュレは王都の子爵家の五女。荒事には無縁の生活をしていた。
彼女の悲鳴が聞こえたのに、アミュレを気にかける余裕がなかった。
「いいえ、いいえ……」
アミュレはふるふると力なく首を横に振った。震えは収まらない。
「マルゴを呼ぶわ。貴方は休んでちょうだい」
「私はレティシア様のお側にいます」
今にも倒れそうな顔をしているのに、私を見る瞳にだけは強い光が宿っている。
辺境の地までついてきてくれた、たった一人の侍女。私は彼女を大事にしたい。
「いいえ、ここで無理をしたら明日の私は誰を伴えばいいの? ジーク様とお話するだけだから」
ジーク様の名を出したとき、先ほどの光景を思い出したのか、彼女の肩がピクリと震えた。
「呼ぶわね」
彼女の側を離れ、呼び鈴を鳴らした。この呼び鈴は魔道具で使用人部屋に音が届くようになっている。
ほどなくして、マルゴが部屋を訪れた。事情を話し、アミュレと交代してもらった。
自室をノックする音が響き、マルゴが対応する。
部屋に入ってきたジーク様は、先ほどの光景が夢だったかのようにさっぱりとしていた。
ソファから立ち上がり、ジーク様の近くに寄るとふわりと石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
「先ほどは、怯えさせたようだな。配慮が足りなかった」
「いえ……」
アミュレの姿を思い出す。私も、怖かった。大丈夫というのは違う気がする。結局あいまいな一言しか発することができなかった。
ジーク様にソファを勧めると、対面に座った。マルゴが新しい紅茶を淹れてくれる。
紅茶を一口飲んだ。一息つけるような気がした。
ジーク様が重い声で告げた。
「今日はオーガ三体だった。幸い死者は出なかったが、怪我人はいる」
突然鳴り響いた鐘の音。
討伐に出るジーク様と騎士たち。
「この地で暮らすということは、覚悟をするということだ」
日常に、魔物が牙を剥く。それが当然の地。今日隣にいる誰かが明日もいる保証はない。
血にまみれたジーク様の姿を見たとき、私は確かに恐怖に怯えた。
……けれどそんなのは、この地に嫁ぐときに覚悟していなければならなかった。
「私は、貴方を娶れるという望外の機会に目がくらんでしまった。
貴方を怯えさせたいわけではなかったのだ。
……もし、貴方がこの地に留まることを望まないのであれば——」
「ジーク様」
ジーク様が討伐から戻られたとき、私は怯えた空気を隠せなかったのだろう。優しい選択を与えてくれようとしたのを、私は遮った。
「私は、頭でっかちで知識だけで理解した気になっておりました。
ジーク様が討伐から戻られた姿を見て、初めて現実を直視いたしました。
……恐ろしいです。それでも、私はこの地を選びたい」
「なぜ……」
呆然とした表情で呟かれた。私はソファから立ち上がると、ジーク様の前に歩み寄り、跪いた。そっとその両手をとり、ジーク様の顔を見つめる。
「ジーク様がご自身の望みより、私の幸せを考えてくださったからです。
私は今日のお姿を見て過酷な地で戦い続けてこられたことを実感いたしました。それでもなお、優しく在れる貴方の役に立ちたいのです」
王都に戻れば、ユリウスの手が伸びる可能性がある、というのもある。
けれど、誰よりも苛烈に戦いこの地を守る、この人を支えたいと思ったのも事実だ。
「そうか……わかった」
ジーク様が何かを噛み締めるように目を閉じた。数秒も経たないうちに目を開ける。
迷いのない、顔だった。
「私は部屋へ戻る。貴方も今日は休むといい」
そう言って、部屋を出ていった。
私は夫婦の寝室に繋がる扉に目を向けた。
まだ固く閉じられていた。




