56-避難訓練
第一回の避難訓練は、領境から始まった。
担当者たちが話し合い、まずは少ない人数で試したいと言われたからだ。
緊急の鐘の音は代わりに鍋の底を叩くことにしたそうだ。
まあ、確かにうるさくはあるけど。
「この音が鳴ったら、避難施設へ向かってください! 子供やご老人の手を引いて、走ってはいけません!」
担当者が実際に鍋の底を叩いたあと、集まった参加者に声を張り上げる。
子どもたちは今から始まる新しい『遊び』に目を輝かせていた。
私も綿の簡素な服を着て、一緒に避難する気満々だったのだけど、担当者から「公爵夫人として視察をしてください」と言われてしまった。
「領民も公爵夫人として、初めての試みを見守ってくださるほうがやる気がでます」
そこまで言われたら、大人しく見守るしかない。
少しして、担当者が鍋の底を打ち鳴らした。耳に響く音に顔をしかめつつ、参加者たちは避難施設のほうに向かって歩き出す。
子どもたちはさっそく走り出して、周りの大人に怒られていた。
全員が移動するのを眺めていると、やはりご老人が後ろに取り残されている。ゆったりと歩く姿は、きっといつもどおりなのだろう。
けれど、有事の際にその『いつもどおり』では間に合わないのかもしれない。
担当者を見ると、すでに書類に何かを記載していた。私の視線に気づくと、こくりと頷かれる。私はそれに微笑んで返した。
避難施設に全員が移動したのを見届けてから、私も移動する。
施設ではすでに大鍋がいくつか用意され、それらの周りに大人たちが集まっている。また別の担当者が麦の入った袋を指さしながら、『炊き出し』の説明をしていた。
「今回、領主様から炊き出しのための麦を賜りました。こちらを、今いる大人で調理していただきます」
ざわりと声が漏れる。領主からの振る舞いには慣れていても、彼らは自分たちで調理することには慣れていない。
ましてや、各家庭の小鍋ではなく大鍋なのだ。
「手順を説明します。これは、有事の際に貴方がたの生存率をあげるために必要なことです」
公爵夫人が後ろで見ているからか、大人たちは神妙に聞いてくれている。説明が終わると、女衆を中心に動き出した。
大人たちが動き出すと、子どもたちが興味津々に覗き込もうとする。それを調理に参加していない大人たちが押し留めていた。
「子どもたちには暇をつぶせる何かが必要ね」
「普段なら広場さえあれば勝手に遊ぶのですが……」
私の言葉を拾った大人が苦笑する。今日の子どもたちに、避難施設の広間では狭すぎるようだ。
普段は町の中を縦横無尽に駆け回り、棒があれば戦いごっこや地面に絵を描いて遊ぶ。女の子たちは専ら季節の草花で冠を作ったり、染め物用の花を採ったりするらしい。
「雨の日はどうしているの?」
「雨の日は家の手伝いですね。だから、子どもは雨が嫌いなんです」
なるほど。家のなかで遊ぶ経験も少ないのか。
案の定、しばらくすると飽きてしまった子どもたちが騒ぎ始める。子どもたちの文句の合唱に、一部の大人から苛立ちのようなものを感じた。
「あら、では拳遊びでもする?」
「拳遊び?」
「ええ、手を開いてパー、二本指を立ててチョキ、握りこぶしでグーというの。これを同時に出して勝敗を決めるの」
近くにいた、年長らしい子に実演しながら説明する。すると、退屈していた子どもたちが周りに集まってきた。
「面白そう! やりたい!」
「では、練習しましょう」
何度か練習すると、すぐに覚えたようで近くにいた子ども同士で遊び始めた。
遅出しをしてケンカを始めてしまったり、小さな問題も起きたけどおおむね子どもたちには好評だ。
「お外なら足を使っても楽しいのよ」
「足で拳遊びできるの?」
「ええ、立ってやるんだけど」
私は立ち上がってジャンプしようとする。それを後ろに控えていたアミュレが、がしりと肩をつかんで止めた。
「レティシア様……?」
後ろを振り返ると、アミュレが貴族令嬢らしい笑みを浮かべている。肩を掴む手の力にアミュレの怒りが見えるようだ。
「……ええと、手で説明するわね」
左手を大地に見立て、指を二本立てた右手をジャンプするような動作で上下させる。そのたびに指を横や縦に開いたり、閉じたりした。
子どもたちも実際にやってみてコツをつかんだようだ。
楽しそうに遊びだしたのに、埃が立つからとすぐに終わらせなければならなかったのは可哀想だったけど。ともかく、子どもたちが退屈を紛らわせることができたようでよかった。
「レティシア様、完成したようです」
担当者が報告してくれた。大人たちが配膳のために準備をしだす。
子どもたちもそれに気づいたようで、大人を手伝い出した。
全員に炊き出しが行き渡ると、それぞれが食べ始めた。大人も子どもも笑顔だ。
多少の問題もあったけど、初めての避難訓練にしては順調に行うことができたと思う。
すべてを見届けてから、私は屋敷へ戻った。
後日、報告とともに問題点の洗い出し、改善を重ねながら、地域ごとに避難訓練は行われた。
「あら……?」
避難訓練が領地全体で実施されてからしばらくのこと。
ジーク様とともに領都に遊びに行くと、子どもたちが遊んでいる姿が目に入った。
「じゃあ、避難施設まで早足で競争!」
「走ったら負けだからね!」
子どもたちは掛け声とともに早足で去っていく。きゃーきゃーと歓声を上げながら楽しそうだ。
「……子どもは何でも遊びにするのだな」
「そうですね。大人としては驚きますわね」
ジーク様と二人で、子どもたちが去っていった方向を見つめた。
彼らが楽しく覚えてくれるなら幸いだ。
そして、避難訓練をすることが日常になるといい。身体に馴染んだ行動は、きっと彼らを助けてくれるのだから。
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