32-妻
今日の私はおかしい。
嫌な夢を見てから、地に足がつかない感覚がする。
現実感がない。
食事をとることはできる。味はしない。
仕事も、できた。
ジーク様は、今日は騎士舎で仕事だ。私は執務室の机で仕事をした。何度もジーク様の机を見てしまう。いない。
「奥様、もしかしてお加減が……?」
ラディウスに心配させてしまった。手は普通に動いているから気づかれないと思ったのに。
「いえ、ちょっと。……ジーク様が足りなくて」
「は」
「……何でもありません」
ラディウスが固まってしまった。その様子に失言したことに気づき、慌てて取り消す。
「……旦那様をお呼びしますか?」
「いえ、本当に、大丈夫ですわ。仕事の邪魔をしたくありません」
「かしこまりました」
なんとも言えない表情をしていたラディウスが了承した。手は動く。集中もできる。ただ、いつもよりその時間が短く、無意識にジーク様の面影を追ってしまうだけだ。
大丈夫、我慢できる。
昼食の時間、騎士舎で仕事をするときは他の騎士たちと食事を共にするはずのジーク様がいた。
「朝、見送りのときの様子が気になってな……」
そう言ったけれど、もしかしたらラディウスから報告がいったのかもしれない。
それでも、気にかけてくれたことが嬉しかったから気づかないふりをした。
昼食後も玄関ホールまで見送る。
「では」
とジーク様が言おうとしたところに抱きついた。硬直される。温かい。ジーク様の匂いがする。
——ちゃんと本物だ。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
私は何事もなかったかのように離れて笑顔を浮かべる。
「え、や、はっ。……行ってくる」
顔を赤くしたまま、取り繕ったジーク様がかわいい。
扉が閉まるまでその背を見つめてから、私も執務室へ戻った。
午後はいつものように仕事ができた。ジーク様の机を見てしまう頻度も減った。ジーク様テラピーの効果は抜群だ。
午前中はよく私の様子を窺っていたアミュレも待機中に刺している刺繍に集中している。
それでも、私が疲れたなと思ったタイミングでお茶が出てくるのだ。私の侍女は優秀で助かる。
夕食後の時間、ジーク様との特訓の時間だ。
最近は倒れることが少なくなったけど、いつジーク様が倒れてもいいように誰かについていてもらう。
けれど、今日は二人きりにしてもらった。
ジーク様にソファに座ってもらい、私も隣に座る。
紅茶は私が用意した。
「美味いな」
ジーク様が目を細めて言うので、私は口元が緩む。今度から二人のときには私が紅茶を用意しようと思った。
「ジーク様、今日は特訓はいたしません。ただ、私が好きにしてもよろしいですか?」
「す、好きに、とは……?」
ジーク様の頬が染まる。見つめると、何かを期待するような、目。じわりと胸が疼く。
「気を失っても、硬直してても構いません。私が、勝手に貴方に触れるだけです」
特訓では、私から触れることも多いから何が違うと言われるかもしれないけど。
「……わかった」
まるで戦に赴く騎士のように重々しく告げられた。思わずクスリと笑ってしまう。
「では、まずソファに深く座ってください。……ああ、今日は足を閉じてください」
「こうか?」
素直に従ってくれることに笑いそうになる。
「では、失礼します」
私は一度立って、ジーク様の膝に横向きに座った。途端、硬直したのが伝わってくる。
もう了承を得ているので、腕に触れた。二の腕が太い。両手で挟んでみるけど、指先が届かなかった。
「すごい、太い……」
そのまま手に力を込めてみる。力の入っていない筋肉は、弾力があり気持ちがいい。
しばらく二の腕を揉んでから、ジーク様の顔を仰ぎ見た。
「……っ!」
目が合った。いつの間にか硬直が取れていた。
私は二の腕を離し、ジーク様にもたれかかった。首元に顔を寄せると、ジーク様の匂いがする。深呼吸した。
「今日は、ご心配をおかけしたようで申し訳ございません」
「いや、大丈夫だ。……何かあったのか?」
「いえ、何も……。ただ、夢見が悪かったのです」
私はポツリポツリと夢の内容を話した。つまらない、昔の話。
ジーク様はたまに相槌を打つくらいで静かに聞いていた。
「起きたら、ジーク様の温もりを感じたくて。この時間まで我慢しようかと思っていたのですが……」
我慢できませんでした。と、自嘲すると、ジーク様の手が私の手を握った。
「貴方は温かいな」
「人間ですから」
私が微笑むと、ジーク様は目をそらした。
「私は貴方は普通の人間のようには思えなかった」
まるで独り言のようだった。
「貴方の法案で、我が領は光が差したように感じたのだ」
ジーク様が辛そうに眉を寄せる。
「女神が降臨したのだと。貴方が苦しい思いをしていることも知らぬまま……」
「それは……。私も、辛いと周りに話すことはいたしませんでしたし……」
両親は聞いてくれたかもしれないけれど、私とフェリシア様以外に、王族の婚約者として相応しい年頃の令嬢はほとんどいなかった。
フェリシア様とアルベルト殿下はお互いを思い合う関係を築いていた。万が一、私が逃げ出してフェリシア様の婚約者がユリウスに変更されては申し訳が立たない。
政略結婚として、肩書き的には出世になるから、周りからの反対も出にくい。
結果、仕事に逃げて自分の首を絞めたわけだけど。
逃げてよかった。現実逃避していたら、ご褒美が降ってきたのだから。
「ユリウス殿下は腹立たしいが、貴方を俺に引き合わせてくれたことだけは感謝してもいい」
「あら、私もあのバカに感謝しないと。ジーク様の妻になれて、こんなにも幸せですから」
「……『バカ』?」
「あ」
また言葉が荒れた。ジーク様は私の様子を見て、嬉しそうに笑う。
「存外貴方も口が悪いな」
「お恥ずかしいです……」
羞恥で顔が赤くなる。ジーク様はそれすらも面白いようで、くつくつと笑い声を漏らした。
頬にジーク様の手が触れた。するりと撫でて、顎にかかる。
「確かに、清廉潔白な女神ではなかったな。——俺の最愛の妻だ」
顔が近づいた。信じられない思いで、ジーク様の顔を見つめる。
唇に柔らかいものが触れても、私は目を閉じることができなかった。
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