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第63話 三度叩く手

 コン。


 二打目が肘に響く。脳が命令していない。


 コン。


 三打目で、呼吸が止まる。私は何をした。


 手が固まった。視界が揺らぐ。血の気が引く音が、頭蓋の中で鳴る。


「……」


 この手が、私のものではない瞬間があった。机の上で、私の指が叩いた跡が残る。コンコンコン。三つの微かな凹みが、木目に重なる。


 陳の視線がそこに落ちる。一瞬だけ、長く。


 彼の指が止まる。書類の端を撫でていた動きが、氷のように固まる。


 目尻が微かに痙攣する。下まぶたが、ほんの一ミリ引き攣れる。


 呼吸の間隔が変わった。深く吸い、一瞬止め、ゆっくりと吐き出す。


 その吐息が、卓上灯の光を揺らす。


 彼はゆっくりと顔を上げる。目が私の目を捉える。その奥に、何かが走る。認識か。警戒か。それとも、呼応か。


 口元が緩む。しかし、それは笑いではない。薄い膜のようなものが張り、すぐに剥がれる。


「……興味深い癖だな」


 声は低く、滑らかだ。だが、その底に、微かな金属音が混じる。


 私の心臓が、肋骨の裏側で暴れだす。ドクン。鼓動が喉まで上がる。


 彼の目が私の右手へと移る。机の上の凹みへ。そして、また私の目へ戻る。


 一連の動きが、あまりに自然だ。自然すぎる。


 指先が冷たくなる。机の木目から伝わる感触が、急に鋭くなる。


 これは、合図だったのか。それとも、ただの偶然か。


 彼は再び書類に目を落とす。指先で角を叩く。トン、トン……そして止まる。三度目は叩かない。


 私の胃が締め付けられる。額に冷たい汗がにじむ。


 彼は何も言わない。沈黙が、全てを語っている。 陳の告白が、応接間の空気を切り裂く。彼はMSSの工作員だ。十年前から、私の恩人ではなかった。


 右手が手すりに伸びる。木の滑らかな曲面が指に触れる。


 コン。\

 一打目が、手首から肘へ振動を走らせる。手すりが冷たい。


 コン。\

 二打目で、胸の奥が締め付けられる。歯を食いしばる。砂埃の味がする。


 コン。\

 三打目が、頭蓋の裏で共鳴する。リズムが、記憶の底から湧き上がる。


 指が固まる。手すりから離れない。


 視界の端で、陳の目が微かに動いた。私の手から、すぐに窓の外へ。


 その一瞥が、全てを物語る。彼はこのリズムを知っている。


「驚いたようだな」


 陳の声が、遠くから聞こえる。私は呼吸を整える。肺が冷たい空気を吸い込む。


「……計画の詳細を聞かせてくれ」


 口が動く。声は平然としている。だが、手すりに触れた指先だけが震えている。


 心臓が肋骨を打ちつける。鼓動が耳朶を震わせる。


 今、ここで崩れてはならない。この三打が、罠の確認信号だったのか。


 私は、無意識に敵へ合図を送ったのか。


 陳がゆっくりと茶杯を置く。陶器が盆に触れる音が、鋭い。


「詳細は、必要な時に」


 彼は笑みを浮かべる。その目は、私の内側を測っている。


 私は頷くだけだ。顎の筋肉が硬い。首筋に汗が伝う。


 手を手すりから離す。掌に、木目の感触が残る。


 緊急プロトコルを起動する。一から十まで、自問自答を始めよ。


 だが、今は表面上を保つ。逃げ道を探す。


「了解した。では、連絡を待つ」


 立ち上がる。足元が微かに揺らぐ。膝が笑う。


 背筋を伸ばす。一歩、応接間から離れる。


 理由は一つ。この三打が真実なら、私は今まで、誰の脚本で動いていたのか。 手すりの感触が指に残る。三度のリズムが、骨に刻まれる。


「では、失礼する」


 声は平然としている。お辞儀をする。腰の角度は、寸分違わない。


 振り返る。足が重い。絨毯が、砂のように足首を捉える。


 扉まで十歩。一歩ごとに、脳が叫ぶ。逃げろ。走れ。


 呼吸を整える。吸う。吐く。リズムを保つ。


 陳の視線が背中に焼き付く。皮膚が熱い。


 扉の取っ手を握る。金属が冷たい。捻る。開ける。


 廊下の冷気が頬を撫でる。一歩外へ。


 振り返らない。背筋を伸ばしたまま、歩き出す。


 足音だけが、大理石に響く。コン、コン、コン。それは、三打のリズムと重なる。


 思考が千切り裂かれる。恩人。仕事。娘。すべてが、偽りの上に積まれていたのか。


 玄関のドアが見える。最後の関門だ。


 手が伸びる。震えを押し殺す。ドアを押し開ける。


 夜の外気が、一気に流れ込む。 私は廊下を出て、夜の庭へと足を踏み入れた。


 足下の砂利が軋む。その音が、頭蓋の中で三叩きのリズムに重なる。


 右手が自然に腿を打つ。トン、トン、トン。指先がズボンの生地に食い込む。


 これは習慣か。それとも、誰かへの合図か。


 立ち止まる。冷気が肺を刺す。


 過去の判断を、今すぐ検証する。まず、林志鴻だ。


 スマホを取り出す。連絡履歴をスクロールする。彼の最後の返信は三日前。「漁港、問題なし」


 問題なし。その言葉の裏に、三叩きは含まれていたか。


 耳朶で心臓が打つ。鼓動が指先を震わせる。


「……」


 次に、伊達徹との暗号手順を思い返す。乱数表、一回限りの鍵。


 その設定に、三という数字が使われていたか。


 額が熱い。思考が渦を巻く。私は、いつからこのリズムに囚われていたのか。


 庭の暗がりで、携帯の画面が青白く光る。佐藤浩一への新たな指示を打つ。


「全ての連絡経路を、第二暗号で再認証せよ。緊急プロトコルを発動する」


 送信ボタンを押す。指が震える。


 今、私が疑わねばならないのは、私自身の記憶だ。十年前の砂漠。あの救出は、本当に偶然か。


 足が再び動き出す。砂利の音だけが、闇に響く。


 理由は一つ。この三叩きが、敵の刷り込んだ合図なら。今、私が考えることも、次に取る行動も、全てが脚本の上にある。 ゲートをくぐり抜けた。背中に邸宅の暖かい明かりが張り付く。


 足が自然に速くなる。歩幅を測る。左、右。道の端を歩く。影に身を寄せる。


 首を回さずに、視界の端で確認する。路地の向こう。車の窓。二階のベランダ。


 呼吸が浅い。冷たい空気が喉を焼く。


 右ポケットに手を入れる。端末の破片が尖っている。握る。角が掌に食い込む。


 信号を待つ。青だ。渡らない。雑誌屋の影で、立ち止まる。


 心臓が耳を打つ。鼓動が、頭蓋の中で三叩きのリズムを繰り返す。


 コンコンコン。


 またか。歯を食いしばる。


 歩き出す。次の角で左折。いつもの帰路とは逆だ。


 店のガラスに、自分が映る。目が、誰かを探している。


 思考がまとまらない。砂漠の熱気。陳の冷笑。林の指差す先。全てがぐちゃぐちゃに混ざる。


 足だけが動く。訓練された身体が、ルートを選ぶ。


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